第47回医療功労賞 全国表彰者の横顔
「第47回医療功労賞」の中央表彰受賞者10人が決まった。内訳は国内部門8人と海外部門2人。地域の医療・福祉に貢献し、難病患者や海外医療の支援に尽力した受賞者の横顔を紹介する(敬称略)。
国内部門
認知症サポーター4400人養成
- 髙取真由美 60 保健師
保健師になって38年。認知症の患者とその家族の支援に力を尽くしてきた。
介護する家族が、苦労や悩みを打ち明けられる場を設けた。患者と家族を支える認知症サポーターを養成。その数は約4400人にものぼる。在宅の患者の話し相手や見守りなどをしている。
閉じこもりがちな高齢者が交流できる場も創設。「生活に楽しみが増えた」など参加者から好評だ。
これらの事業は、北海道内でも先駆的な取り組みになっている。現在は町福祉部長として、町全体を見渡した福祉対策にあたっている。〈北海道当別町〉
地域の1次救急 半世紀支援
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柿崎幸雄 86 医師
1961年に国立弘前病院に勤務して以来、半世紀以上、地域医療に携わってきた。青森市内に71年、医院を開業、診療の一方で市急病センターの設立にも尽力。当番医として地域の1次救急を支えた。
青森は慢性的な医師不足の地域だ。医師が限られる中で、患者を選ばず、専門の外科以外の病気の診療にもあたってきた。現在、市内の病院で週4回、非常勤の医師を務める。
診察では患者との会話を大切にし、そこから得られるヒントから適切な診療科につなげる。気力が続く限り、経験を後輩に伝えていきたいと考えている。〈青森市〉
防災の医院 震災に耐える
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後藤康文 81 医師
医院のある岩手県宮古市は2011年3月の東日本大震災の津波で多くの犠牲者が出た。混乱の中で患者や地域住民200人以上の避難者を医院に受け入れた。災害の備えが生きていた。
震災の5年前、医院を、震度7の揺れと20メートルの津波に耐えられる4階建てビルにした。給水タンクと自家発電機、重油タンクを屋上に、電子カルテを記録するサーバーは4階に置いた。
透析学会の勉強会で神戸の医師から1995年の阪神・淡路大震災の経験を聞かされていた。過去に三陸地方を襲った津波など被災の歴史も参考にした。だが当時は、周囲から奇異な目で見られたという。
東日本大震災では、津波で1階は浸水したが、避難者を3階以上に待機させ、看護師の更衣室や急患用のベッドも開放した。あるだけの布団や毛布を提供した。街中が停電する中、医院だけが明かりをともしていた。
翌日には無事だった設備で人工透析治療を再開。周囲の医療機関から患者を受け入れた。
大震災では電話などの通信手段が断たれた。これを教訓に、アマチュア無線を導入した。食糧の備蓄も進める。「地域の命を守る使命に終わりはありません」と力を込める。〈岩手県宮古市〉
新生児死亡率減らす体制に
- 瀬尾文洋 71 医師
40年近く、地域の出産を支えてきた。茨城県日立市に開業当初、帝王切開や難産などに対応する医療体制が不十分だった。開業医では対応が困難な妊婦を日立総合病院に送る仕組みを整備した。
日立市では新生児死亡率の高さが問題になっていた。低体重児や人工呼吸などが必要な赤ちゃんを新生児集中治療室(NICU)のある医療機関へ搬送する保育器の導入と同病院でのNICU開設も進めた。これらを境に死亡率も激減した。
今後も、安心して妊娠、出産、子育てができる環境作りに取り組む考えだ。〈茨城県日立市〉
「最期まで自宅」800人看取る
- 野呂純一 74 医師
地域の在宅医療の先駆者として、「住み慣れた地域、我が家で最期まで」をモットーに、約800人を自宅で看取(みと)った。
医師だった母から1986年に診療所を引き継いだ。患者や家族の不安に耳を傾け、希望すれば最期まで自宅で過ごせるように、きめ細かな医療を提供した。一人暮らしの高齢者には、無報酬で1日1回の安否確認をしてきた。医師が不在の過疎地域には週2回、巡回訪問も行った
現在も、患者宅を1日10人以上、訪問するなどし、高齢者の暮らしを健康面から支えている。〈三重県松阪市〉
ALS患者 きめ細かな支援
- 森美智子 62 保健師
難病患者が、自宅で過ごせる態勢づくりに奔走した。1997年度に患者支援などを県から保健所に委譲されて以来、難病の申請があると、患者宅へ訪問を重ねた。
特に力を入れたのは、全身の筋肉が衰える筋萎縮(いしゅく)性側索硬化症(ALS)患者の支援だ。患者の自己決定を支えるとともに、進行する病状に合わせて各種支援サービスを調整した。休みなく介護する家族のケアや、患者同士の交流も進めてきた。
現在も、町の嘱託職員として、高齢者の体力づくりや、介護予防に取り組んでいる。〈徳島県東みよし町〉
町の保健師 幅広くサポート
- 藤原安江 61 保健師
町の保健師として37年間、地域住民の健康を多方面から支えてきた。
出産があると、必ず訪問した。母子の状態を確認し、母親の悩みや不安に耳を傾けた。保健師だけでは限界があると、「母子愛育班」などを作り、地域住民の活動を育てた。精神障害者が地域で暮らすための支援にも注力。長期間入院していた人が退院する時、医療や福祉関係者らと連携・調整をした。
現在は町社会福祉協議会の事務局長。培ったネットワークを生かし、一人暮らしの高齢者の支援や、後輩保健師の指導に励んでいる。〈香川県多度津町〉
在宅障害児 巡回相談9000件
- 江口寿栄夫(すえお) 85 医師
肢体不自由児のための県立施設「子鹿園」(当時)の整形外科医として30年間、脳性まひなどで障害のある子どもたちの診療やリハビリに取り組んだ。アメリカ留学を経て施設長に就任。国内ではリハビリ医学が広まりだした頃で、最新の技術や知見を積極的に導入した。入所者の残された機能を最大限に引き出し、社会的自立につながるように努めた。補装具の導入や手術なども精力的に行った。
在宅の障害児の巡回相談は1995年までの22年間で約9000件にも。重症心身障害児・者の施設で診療を続けている。〈高知県南国市〉
海外部門
バングラデシュに看護学校
- 二ノ坂保喜(やすよし) 68 医師
インド国境に近いバングラデシュの農村で1995年、母子保健センターを作り、現地NGOと連携して医療水準向上に努めてきた。
村は当初、正規の医師が不在で、ほぼ医療サービスがない状態だった。センターは地域医療の核として、妊婦健診や巡回健診、貧しい人の診療などをしてきた。日本国内での診療の合間、毎年のように医師や看護師らと現地を訪問している。
安定した支援を続けるために、2004年にNPO法人を設立。現地スタッフの教育や自立を重視し、奨学金制度を作り、17年には看護学校を開校した。〈バングラデシュ〉
中国で眼科手術 医師も育成
- 市川一夫 66 医師
中国東北部で20年間、5000件以上の眼科手術をし、現地の医療者の指導にも当たってきた。「一人で頑張るより、多くの医師のレベルを上げる方が、何倍もの患者が救われる」と力を込める。
日本に留学中だった中国人医師に誘われて、1998年に初めて渡った瀋陽では大勢の眼科医の前で、白内障の手術をした。手術室内にハエが飛ぶなど、当時の環境は日本と大きく異なっていた。最新超音波の機械で目の中の濁りを砕いて取り除き、人工レンズを挿入。十数分後、患者はメガネをかけてすっくと立ち上がった。周りは息をのんだという。
以来、多い時は年10回訪中した。名古屋を昼に飛び立ち、大連の病院で手術を数十件。翌日の午後にはまた日本国内での診療に戻ったことも。大連の医科大から交通費は支給されたものの、それ以外は手弁当だった。
忘れられないのは、ほぼ視力を失った10歳前の男の子の手術。子どもには全身麻酔をするが、男の子の家庭は貧しく点眼だけの局所麻酔になった。男の子は術中、動かないよう口を一文字に結んで我慢していた。「すごい。よく見えるよ!」――。手術が終わり、視力を取り戻した明るい表情に、疲れも吹き飛んだ。
最近は、モンゴルやベトナム、ミャンマーでも診療を始め、後輩の医師を派遣したり、留学生を受け入れたりと、交流はますます活発になった。「手術の技だけでなく、看護師や視能訓練士との連携など、医療を提供するシステムも含めて、伝えていきたい」〈中国ほか〉