第25回(2018年度)読売国際協力賞「ルワンダで義肢を無償製作・提供」 ルダシングワ真美氏
第25回読売国際協力賞は、アフリカ・ルワンダで手足を失った人々に義肢を無償製作・提供する支援活動を地道に行ってきた民間活動団体「ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」代表のルダシングワ真美氏(55)に決定した。ルダシングワ氏は1997年、ルワンダ首都キガリに義肢工房を開設して以来、94年の虐殺で手足を失った人など延べ8600人以上に義足やつえを提供、自立を支援する活動を続けるとともに、同国の障害者スポーツの振興にも貢献した。
ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト
1997年以降、ルワンダで20年以上にわたり障害者に義足やつえを無償提供してきた民間活動団体。ムリンディはルワンダ北部の村で、ガテラさんが93年、多くのルワンダ人を前に義足の提供を宣言した思い出の場所。「ワンラブ」には虐殺のような民族対立を超え、「一つになって愛し合おう」という願いが込められている。
「歩く希望」作り20年
第25回読売国際協力賞を受賞したルダシングワ真美氏(55)は、虐殺で手足を失ったルワンダの人々に無償で義肢を作り、提供する人道支援活動を地道に行ってきた。もう一度自分の足で歩きたい――アフリカの障害者たちの生きる希望を、ひたむきに支え続ける日本人女性の20余年の献身が輝く。
■提供8000人以上
陽光に街路樹がまばゆいルワンダの首都キガリ。虐殺からの復興を象徴する清潔な市街地の緑豊かな一角に、真美さんが運営する「ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」の本拠地「ワンラブランド」がある。レンガ造りの義肢製作工房に入ると、壁には様々な工具が並び、つえの先端部を削る機械の低い音が響き渡っていた。

「義足を作って、障害者が歩けるようになるのを見るのはうれしいよ」。義肢装具士として11年前から工房で働くアシエール・ニリンクワヤさん(33)は白い歯を見せる。
1997年に稼働した同プロジェクトは、94年に起きたルワンダ虐殺や病気などで手足を失った障害者に義肢を無償で贈ってきた。これまで隣国ブルンジを含め延べ8600人以上が義足やつえを得て、より自立した生活を送れるようになったという。
- 〈ルワンダ虐殺〉
- 1994年、フツ族のハビャリマナ大統領が乗った飛行機撃墜事件を機に、フツ族強硬派がツチ族とフツ族穏健派を無差別に殺害。わずか3か月で80万人以上が犠牲になったとされる。民族対立は、かつて植民地支配したベルギーによるツチ族優遇政策が根底となった。
工房受付にある義足をもらった人のカルテには、感謝の言葉がつづられている。
「最初は慣れなかったけれど、練習してみんなと一緒に学校に通いたい」(8歳女児)
「子供のころは足がないことでいじめられることも多かったけど、今は義足を手に入れられて幸せ。これからはいろいろなところに出かけてみたい」(47歳女性)
工房では、義足を希望する障害者から足を失った時の状況などを聞き取った後、石こうのついた包帯で足の型を取り、義足を作っていく。日本の義足で使われている高価な材料や機器は、この国では手に入らない。しかし、プラスチックのパイプなど安価な材料を活用し、型から空気を抜くのに必要な真空ポンプを掃除機で代用するなど、知恵と工夫で乗り切っている。それでも、大きさや肌の色、生活様式など、一人一人の特徴に合った義足を作ることにこだわる。
今年8月に工房で義足を新調した電気工のエボデ・ハビマーナさん(42)は94年、虐殺時の銃撃で、右足のすねから下を失った。その後手に入れた義足で仕事が出来るようにはなったが、左足との長さがそろっておらず、体を曲げて歩いていた。「長さの調整など自分の希望を聞いてくれたので、体をまっすぐにして歩けるようになったよ」と、真新しい義足をなでた。

■ルワンダに工房
活動は、真美さんとルワンダ人の夫ガテラさん(63)が二人三脚で進めてきた。幼少の時、病気の治療ミスがもとで右足に障害を負い、親と別れて障害者支援施設で育ったガテラさんは、「自分が受けた支援への感謝を、同じ立場の同胞への支援で返したい」との思いを抱き続けてきた。
真美さんは「ガテラの足の装具を作りたい」との願いと「何か手に技術を持ちたい」との思いから、92年から5年間、横浜市戸塚区の平井義肢製作所で技術を学んだ。この間に起きたルワンダ虐殺。「障害を負った大勢の人が義足と私の技術を必要としている」。既に心に決めていたルワンダ行きに、虐殺被害者の支援という新たな意味が加わった。
97年、キガリ市内の小さな飲食店を改築し義肢工房を開設。並行して、政府に掛け合い約1・5ヘクタールの土地を入手、荒野を整地し、建物のレンガも手作りして、ゼロから今の拠点を作り上げた。2000年に移転した現敷地内には、宿泊施設やレストランも併設され、従業員約30人が働く。
■技術者育成
ルワンダでは国民の約1割が何らかの障害を持つとされる。だから、キガリまで来るお金のない障害者のため、地方での巡回診療も行う。障害者の職業訓練にも力を入れ、義足作りの技術を学ぶため、これまで技術者10人を日本に派遣した。中には独立して自ら義足工房を始めた人もいる。
だが、苦労も尽きない。「一番の悩みは資金繰り」と真美さん。宿泊施設などからの収入もあるが、運営資金の約7割は日本などからの寄付だ。多発する洪水被害も深刻で、大雨が降ると敷地内の川が氾濫し、浸水で義足の材料や機器が壊れることもあった。
それでも、「義足を着けて歩けるようになった障害者が笑顔を見せてくれると、うれしくなる」と真美さんは笑う。アフリカの地で「希望の義足」を作る価値ある歩みが今後も続く。(キガリで、木村達矢)
障害者スポーツにも力

真美さんたちが義足支援とともに力を入れるのが、障害者スポーツの振興だ。「障害を負ってもできることは多くあり、逆に足をなくしたから新たに出来ることもあることを知ってほしい」との思いからだ。
2000年のシドニーパラリンピックでは、当時工房で義肢装具士を務めていた男性が競泳に出場、ルワンダ初の快挙となった。真美さんも開会式の行進に選手とともに参加した。その後、他の種目も含めた「ルワンダ障害者スポーツ連盟」を結成。現在は、ルワンダ人による「ルワンダパラリンピック委員会」として引き継がれ、継続して参加を果たしている。
2020年東京パラリンピックには、夫のガテラさんが、車いすマラソンへの出場を目指す。ガテラさんは「若くはないが、気持ちがあれば体もついてくる。他の障害者の見本になれれば」と練習に励んでいる。
義肢製作 夫がきっかけ
「本当にありがたい。副賞は、義足の材料購入などに使っていきたい」。真美さんは受賞の喜びを語る。
これまでの歩みは、ルワンダ人の夫ガテラさんあってこそ。2人の出会いは1989年、ケニアのナイロビだった。神奈川県茅ヶ崎市出身の真美さんは英語専門学校を卒業した後、事務員などをしていたが、「変化のない日常に嫌気がさし」、26歳の時にたまたま見つけたケニアでのスワヒリ語留学コースに参加。その時、ルワンダ難民として民芸品の行商人をしていたガテラさんと知り合った。帰国後も文通を続けるうちにお互いひかれるように……。足に障害を持つガテラさんへの思いから義肢製作を学ぶうち、虐殺が発生したことで支援を必要とする障害者が急増。義肢工房を始めて、いつのまにか20年以上の歳月がたっていた。
「『すごいね』と言ってくれる人もいる。でも、障害者を助けたいというより、単に自分の技術が生かせる場所があればいいという感覚」だという。障害者を援助するという気持ちだと、逆に障害者との間に壁が出来ると感じるためだ。
気がかりは後継者の育成。「自分たちが死んでも活動が続けられるようにしたいが、志を持った人が現れてくれない」と嘆く。「やめたいと思うこともあるけど、ここまで来たらもう逃げられない。意地ですね」
「ゼロから地道に」 佐藤行雄・選考委員会座長
ルダシングワ真美氏は20年以上にわたり、大虐殺で手足を失ったルワンダの人々に無償で義肢を製作・提供する人道支援活動を地道に行ってこられました。 寄付集めや現地拠点作りなどの一切をゼロから立ち上げ、民族紛争の被害者に自立への希望を抱かせる義足を贈り続けてこられた真摯(しんし)な活動は、日本として世界に誇るべき国際貢献と言えます。2020年東京パラリンピックを控え、途上国における障害者スポーツの普及発展に果たした貢献も特筆に値します。
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顕彰続け四半世紀
国際協力の分野で顕著な功績をあげた個人や団体を顕彰する「読売国際協力賞」は今年で25回目を迎えた。
1994年に読売新聞創刊120周年を記念して創設され、第1回の緒方貞子氏(国連難民高等弁務官)以来、13個人、12団体(うち企業2)が毎年受賞。途上国や紛争・災害地域での人道支援、貧困救済や医療保健、教育支援、企業の社会貢献など、四半世紀を重ねた歴代受賞者・団体の足跡は、冷戦終結後に本格化した日本の国際協力の発展と進化を物語る。
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(2018年11月22日 読売新聞)