第21回(2014年度)読売国際協力賞満屋裕明・熊本大教授 途上国にエイズ薬普及、特別賞:青年海外協力隊など3団体

第21回読売国際協力賞は、エイズ治療薬の開発を通じ、発展途上国の貧しい人々の命を救うことに尽力した熊本大教授、満屋裕明さん(64)に贈られた。また、日本の若者たちによる発展途上国でのボランティア活動を半世紀近く続けてきた「青年海外協力隊」と、これを支援してきた「協力隊を育てる会」「青年海外協力協会」の計3団体への特別賞が決まった。

満屋裕明さんの略歴
1950年長崎県生まれ。75年熊本大医学部卒。現在、熊本大学教授、国立国際医療研究センター(東京都新宿区)理事・臨床研究センター長、米国立がん研究所レトロウイルス感染症部長などを兼任する。紫綬褒章、慶応医学賞など受賞。

「HIVで死なせない」

写真:満屋裕明さん
日本と米国を往復して研究に打ち込む満屋裕明・熊本大教授(9月29日、熊本大学で)=中嶋基樹撮影

母との約束

「人が長生きできる薬をきっと見つけるから」

子どもの頃、満屋さんは病気がちだった母・真喜子さん(1990年死去)と約束したという。満屋さんは熊本大学で血液内科の医師となり、82年、米国立がん研究所に留学した。

この頃、米国では後天性免疫不全症候群(AIDS=エイズ)と呼ばれる謎の病気が広がっていた。免疫力が急激に落ち、発症から2年以内に、肺炎などで9割の患者が亡くなる。

病原体のエイズウイルス(HIV)を、フランスの研究者が発見したのは83年だ。満屋さんは当時、白血病を起こすウイルスを免疫細胞に感染させる研究で、世界をリードしていた。

HIVも、免疫細胞に感染する。謎の病気に挑む環境は整っていた。「薬が必要な患者が世界中にいる。自分がやるべき仕事だ」

HIVは細胞に入ると、自分の遺伝子を酵素を使って書き換え(逆転写)、ヒトの免疫細胞のDNAに組み込む。満屋さんは、この逆転写を止める薬(逆転写酵素阻害剤)を作ろうと考えた。

感染を怖がる実験助手は実験の手伝いを断り、同僚には「同じ研究室を使うなら退職する」と言われ、深夜から早朝まで1人で実験する日が続いた。実験が朝まで続くと、出勤した同僚と口論になったが「患者が長生きする薬を作る」という信念は揺るがなかった。

薬あるのに

85年、最初の薬の候補となる化合物の効果を発表した。米食品医薬品局は87年、世界初のエイズ治療薬「AZT(アジトチミジン)」を異例の速さで承認した。

写真:満屋裕明さん
世界初のエイズ治療薬「AZT」を開発した満屋さんを、レーガン米大統領(左)が激励した(1988年、米国立がん研究所で)=満屋さん提供

85年、最初の薬の候補となる化合物の効果を発表した。米食品医薬品局は87年、世界初のエイズ治療薬「AZT(アジトチミジン)」を異例の速さで承認した。

世界中の患者が待ち望んだAZTだが、満屋さんに化合物を提供した製薬会社が特許を独占。薬代は、当時としては記録的な高値となる年間150万円に上った。低所得者や、エイズが広がる途上国の患者は、治療を受けられない。

「薬があるのに、患者が長生きできない。憤りの気持ちでいっぱいになった」

91年には副作用が少ない「ddI」、92年に「ddC」と、相次いで新薬を開発した。だがHIVは変異しやすく、薬が効かなくなる患者が続出した。

そこでAZTなど複数の薬を組み合わせる「多剤併用療法」が編み出された。AZTが先陣を切り、薬の開発が続いた成果だ。

満屋さんはさらにHIVを追いつめるため、HIVが増えようとする時に、たんぱく質を分解する酵素の働きを止める薬(プロテアーゼ阻害剤)を探した。2006年、米国の科学者との共同研究で完成させた「ダルナビル」は、途上国が特許料を払わずに使える医薬品として世界で初めて国連の機関に登録された。「思いが通じた」と喜ぶ。

治療薬は今、20種類以上に増え、血液などに含まれるウイルスを検出できない微量まで減らす治療が可能になった。1日1錠の服用で済む薬も登場し、エイズは「薬でコントロールできる慢性病」に変わった。

だが感染者は世界で3500万人を超え、今も拡大が続く。薬が届く感染者はその3分の1に過ぎず、感染者への差別も根強い。

「HIVで一人も死なない世界にしたい。まだまだ仕事が残っています」(科学部 山田聡)

図版:エイズの薬
図版:ベトナム

開発薬は「希望の光」 ケニア 

サハラ以南のアフリカには、今も2500万人のHIV感染者がいる。アフリカのHIV治療は、2002年に日本など先進国が資金を出して「世界エイズ・結核・マラリア基金」が設立され、安いジェネリック医薬品が普及し始めると、劇的に変わった。

現地では日本人医師も活躍し、薬と共にHIV感染者の希望の光となっている。ケニアの首都ナイロビで、感染者の無料診療などを行う日本のNGO「チャイルド・ドクター・ジャパン」のクリニックでは、受診するHIV感染者の7割がAZTを服用している。

10月22日にクリニックを訪れたサイラスさん(42)も、その一人だ。「元気に生きていられるのは、この薬のおかげ。感謝しきれない」と、笑顔で語る。サイラスさんは2年前から薬を服用し、トウモロコシ農家の仕事にも支障がない。

ケニアのHIV感染者は約160万人で、大人の約6%とも言われる。政府は06年からHIVの治療費を負担し、感染者は無料で治療を受けられる。クリニックの医師公文和子さん(45)は「AZTはアフリカでも早くから使われ、多くの命を救った」と話す。

写真:ケニア
ケニア・ナイロビのチャイルド・ドクター・ジャパンのクリニックでは、満屋さんが開発したAZTを含むエイズ治療薬が、感染者の希望の光になっている(10月22日)

だが、課題もある。ケニアでは、HIV治療薬の処方に必要な知識を備えた医療者が足りない。感染者が薬をきちんと飲まず、ウイルスが変異して、薬が効かなくなるケースもある。

HIV研究者の稲田頼太郎さん(68)は、4年前に米国の病院を退職してケニアに移住。ナイロビの貧困地区で感染者の相談に乗ったり、医師に治療方針を助言したりする活動を行っている。稲田さんは「素晴らしい薬も正しく使われなければ意味がない。その意味では、アフリカは薬の恩恵を十分に受けていない」と訴え、人材の育成にも取り組む。感染者を支える日本人の熱意は、国境を超えて広がる。(ナイロビ 上杉洋司、写真も)

治療の突破口に

「AZTは、エイズ治療の突破口となった点で、画期的だった」。エイズ予防財団理事長で東京医療保険大学長の木村哲さん(73)は、満屋さんの研究が果たした歴史的な意義を強調する。

エイズの拡大が社会問題となった90年代、日本でも病院が患者の受け入れを拒む例が起きた。木村さんは「薬は感染者だけでなく、医療現場の意識も変えた」と話す。感染者も薬を適切に服用すれば、他人に感染させる恐れがほとんどない。薬は、今やHIV感染拡大を防ぐという社会的な役割も担っている。

途上国では、約1000万人が薬の治療を受ける。12年に新たにHIVに感染した人は世界で推定230万人だが、01年の3分の2に減った。死者もピーク時の7割に抑えている。

しかしHIVの増殖は抑えても、HIVを完全に体から追い出す薬はできていない。HIVを根治させる薬が、待ち望まれている。

【特別賞】青年海外協力隊など3団体

88か国でボランティア

青年海外協力隊は、国際協力機構(JICA)が実施するボランティア派遣制度で、2015年に50周年を迎える。開始以来、延べ4万人に迫る若者が88か国で現地との相互理解の精神のもと、ヒトづくり、国づくりに汗してきた。

新宿・市谷のビルの一室で事務局がスタートしたのは、1965年4月。海外でボランティア活動を行うことは、当時の多くの日本人に想像もつかないことだったが、それでも多数の応募があり、選考を経て、同年の12月24日には第1陣がラオスへ向かった。

協力隊の活動は、教育、衛生指導、農業やモノづくりの現場での技術指導など多岐にわたる。隊員の中には、帰国後、国内外でボランティア活動を続けた人も多く、日本にボランティア精神を広めるという役割も担ってきた。

しかし、帰国後の就職がなかなか見つからないなどの苦難に直面した隊員が多かったのも実情だ。こうしたことから、彼らを支援しようと始まったのが、協力隊経験者と有志からなる「協力隊を育てる会」と全国の協力隊OB・OG組織を傘下に収める「青年海外協力協会」の活動だ。

離職しなくとも参加できるよう役所や企業に働きかけたり、就職口を探したりと奔走した。協力隊への参加を希望する人たちに体験を伝えるなどの広報活動や、現地事務所に駐在して隊員を支えるなどのサポート役も担ってきた。

「協力隊のルーツは、日本の青年を平和の使者として海外に派遣しようという民間の構想にあった。だから国民運動として支えたい」(青年海外協力協会・金子洋三会長)のだという。最近では、「地方自治体もグローバルな視点が求められる時代」(小川登志夫・JICA青年海外協力隊事務局長)と、地域おこしの担い手として経験を還元することにも期待の声が高まっている。隊員経験者を取り巻く環境は、かなり改善されたが、協力隊を育てる会の足立房夫会長は、「まだまだ、十分に活用されているとは言えない。協力隊員を育て、貴重な経験を生かせる社会に」と訴える。

試練乗り越え成長 隊員経験者

写真:星野昌子さん

青年海外協力隊の活動は、これまで幾多の人材を社会に送り出してきた。

1965年、第1期生としてラオスに派遣された星野昌子さん(82)=写真上=(当時は山下姓)は、「33歳で協力隊に参加して人生が変わりました」と当時を懐かしむ。

慶応大卒業後にいったん結婚したものの、語学力を生かして働きたいと思っていた彼女に婚家の理解はなく、32歳で離婚。鬱(うつ)々とした日々を送っていた65年春、新聞で見た隊員募集に運命を感じた。海外で日本語教師が求められている――胸を高鳴らせて応募したところ、見事合格。選ばれた31人中、女性は5人だった。

実は着任したラオスに日本語教師のニーズはほとんどなく、「拍子抜けした」が、やがて社会人などを対象とした教室がスタート。現地の民家にホームステイしながら隊員として2年間の生活を送った。

異国の家庭で暮らす日々には、学ぶことが多かったという。「父親が、朝から肉を挽(ひ)いて食事の準備をする。障害のある子も水牛の世話の係をちゃんと務める。皆が助け合う家庭のあり方は素晴らしいと思いました」

写真:ラオス
ラオス・ビエンチャンの日本語学校終了式に出席した星野さん(右奥、1967年撮影)

その後もタイで仕事に就くなどキャリアを重ねていたが、やがてインドシナ3国での社会主義政権成立によりタイ国境に難民が殺到し始めたのを見かね、支援活動を開始。80年にNPO「日本国際ボランティアセンター」の前身となる団体を創設し、以後は国際支援の最前線で活躍してきた。

そんな半生の原点は、他国との関わりの中で自らを生かそうと海外に飛び出した協力隊体験。「世界中に活躍の場はある。今回の受賞を機に、改めて活動が注目されたらうれしいですね」

写真:猪浦智史さん

隊員経験を、東日本大震災の復興支援につなげている若者もいる。大津波で被害を受けた岩手県山田町で保健師として働く猪浦智史さん(29)=写真下=は、2011年から2年間、アフリカ南東部のマラウイで隊員として活躍してきた。

世界のために貢献したいという思いから、地元・新潟県の大学で看護学を学んだ後、3年間の実務経験を経て隊員に。受け持ったムジンバ県エディンゲニ地区は、ほとんどの家に電気が通っていない農村地帯。病気になれば50キロも離れた町へ行かねばならぬ村で、乳幼児の検診や疾病予防の講習会にフル回転した。「自転車が壊れたら自分で直す。片言の現地語で、何とか意思を伝える。どんな困難も自分で解決するんだ、という精神力が鍛えられました」

写真:マラウイ
5歳未満児検診で住民の話を聞く猪浦さん(2012年撮影)

帰国時には、自分の力を生かすべく、復興庁の復興支援員制度に応募した。昨秋着任した同町は、人口2万人弱に対し、800人を超す死者・行方不明者が出た町。被災者を訪ねて健康相談をするなど、神経を使う仕事もある。だが、求められていることを自ら探し、行動してきた隊員の経験はここでも生きている。

「とにかく現場に出て、自分の頭で考えること。後進にはそんなメッセージを送りたいですね」。試練を糧にたくましく成長する隊員のスピリットは、脈々と受け継がれている。


「世界的に高い意義」 選考委員会座長・佐藤行雄

満屋裕明さんは、かつては不治の病として恐れられていたエイズの治療薬を開発され、しかも、特許にかかわりなく、途上国でも安く薬が入手できるよう尽力されました。高度な研究成果を国際協力に結びつけられた満屋さんのご活動は、世界的にも高い意義があると思います。

青年海外協力隊は、約4万人のボランティア隊員の地道な活動を通じて、顔の見える国際協力を続けて来られました。来年、創設50周年を迎えられるこの機に、隊員の再就職斡旋(あっせん)を始めとする、協力隊支援に尽力して来られた関連団体とともに、その業績を顕彰できることは幸せです。

(2014年11月04日 読売新聞)