第20回(2013年度)読売国際協力賞眼科医・服部匡志さん 「ベトナム 2万4000の瞳輝く」

第20回読売国際協力賞を受賞した眼科医、服部匡志(ただし)さん(49)は、日本各地の病院で手術を請け負い、その報酬で治療器具や医薬品を購入し、ベトナムで貧しい人たちの手術を無償で行ってきた。

服部匡志さんの略歴
1964年
大阪生まれ
  93年
京都府立医科大学医学部卒業
  94年~
 
2002年
大阪、京都などの病院勤務
  02年
ベトナム国立眼科病院・網膜硝子体手術指導医に就任
  04年
同病院客員教授

「患者は家族」無償治療

独自の道

写真:服部匡志さん
ベトナム南東部のニントゥアン眼科センターで、手術前に患者の症状を確認する服部さん(中央)=梁田真樹子撮影

「ただひたすら、患者の視力を取り戻すお手伝いをしたい」という思いで、独自の道を切り開いてきた服部さんの挑戦――。

ベトナムで眼科治療に携わることになったきっかけは、2001年10月に母校・京都府立医科大で開かれた学会で出会ったベトナム人女性医師の切実な訴えだった。

彼女は「眼科治療が遅れているベトナムは失明する人が多い。助けてほしい」と訴えた。当時、服部さんは、白内障の治療法である網膜硝子(がらす)体手術のエキスパートとして眼科医院で忙しい日々を送っていた。だが、「自分の技術がもっと求められる場所があるなら」と02年4月、ベトナムに渡った。

当時のベトナムは人口8000万人に対し失明者数は数十万規模。貧しくて白内障の治療が受けられず手術ができても技術が不十分で合併症を引き起こすケースが多かったためだ。

勤務先となった首都ハノイの国立眼科病院では、視力を失いかけた患者が生きる気力まで失いそうになっていた。「やれるだけ、やってやる」。片っ端から手術を引き受けた。

地方にはハノイまで来ることができない患者がたくさんいると知り、1週間前後で地方の病院を巡る「手術行脚」も無償で始めた。北は中国国境から南はメコン川下流域まで。小さな村で、「日本の医者が無料で目が見えるようにしてくれる」と聞いて集まってきた100人以上の患者を、1~2日で治療した。持病の腰痛を押して10時間以上、手術台の前に立ち続けたこともあった。「視力が戻った時の患者の笑顔を見ると、苦にならないからね」

資金源は日本での仕事だ。活動を理解してくれる病院計10か所をほぼ2週間で巡り、次の約2週間はベトナムで治療する。  こうした生活パターンが定着して11年半になる。ベトナムで治療した患者数は1万2000人を超えた。

使命感

使命感に燃える心の支えは、高校時代に胃がんで亡くなった父、敏郎さんの「人の役に立つ仕事をしろ」という言葉だ。父の死を機に医師を目指したが、4浪した。ベトナムに来た当初は日本で資金を稼ぐ手段がなく、眼鏡販売店でコンタクトレンズを調整するアルバイトでしのいだ。「へこんだ時、おやじの言葉を思い出すと、目標に向かって頑張れた」と振り返る。

日本とベトナムの往復でこなす手術数は年間約800件と尋常ではない多さだ。記者(田原)は数年にわたり日本とベトナムで活動を取材してきたが、「患者がいなくなることはないから、やり続けるだけ」という服部さんから弱音を聞いたことはない。

近年はベトナムだけでなく、ミャンマーにも活動範囲を広げつつある。大学時代を過ごした京都では、活動に共感する有志による民間活動団体「アジア失明予防の会」が側面支援を展開する。

家族思いのベトナム人は、仕事より家族を優先することが少なくないという。だから、指導するベトナム人医師や共に働く看護師らには、「患者を家族と思ってほしい」とお願いする。それは、自身の信条でもある。「たくさんの『家族』を救うと思えば、仕事に熱くなれるはずだから」 (ニューデリー支局 田原徳容)


現地の後継者 育成急ぐ

10月中旬、ベトナム南東部ニントゥアン省ファンラン市のニントゥアン眼科センターは、服部さんの手術を待つ患者でごった返していた。

図版:ベトナム

2年前から左目が見えなくなったというダウ・ティ・ルイさん(75)は、「ラジオで、日本の医師が目を治してくれると聞いて、30キロ離れた村からやってきた。私の村に眼科医はいないから」と話した。

服部さんは、患者を間違えないようにと、それぞれの額と手の甲に名前などを書いたテープを貼りながら、症状を確認していく。不安そうな表情の人を見つけると、「ホムローラン(大丈夫)」と励ます。

いよいよ手術だ。服部さんが主に日本から持ち込んだ、眼内レンズ、鉗子(かんし)、点眼薬や使い捨てのマスクといった医療器具や薬などは総量240キロ・グラムに及ぶ。ベトナム人の若手医師たちと手際よく広げると、手術台についた。

同センターには新品の超音波白内障手術装置や顕微鏡が備え付けられている。服部さんの働きかけが実り、日本政府の援助で導入されたものだ。

手術は、早朝から夜まで、ほとんど休む間もなく続いた。一夜明けると、前日手術した患者の状態を診ながら、「よし、大丈夫」「1週間後からまた見えるようになりますよ」と声をかけていく。

その中の一人、役場に勤めるボ・ティ・ノさん(49)は、「文字を読むのも一苦労だったが、これでまた仕事に集中できる」と満面の笑みだ。89歳の母親に付き添う主婦のボ・ティ・チさん(60)は、「目が見えるようになった母を、いろいろな場所へ連れ出したい」と、上気した口調で語る。

紫外線の強いベトナムでは、高齢者はもちろん、20代や30代でも白内障にかかるケースがみられる。それなのに多くの郡部では、満足な医療設備がなく、基本的な治療さえ受けられない。

ニントゥアン省も例外ではなく、服部さんたちは5年前から治療活動にあたっている。10月は3日間滞在し、約90件もの手術をこなした。

写真:患者たち
ニントゥアン眼科センターで、手術前の検査に臨む患者たち

同センターのファム・バン・ハイ院長(53)は「大勢の患者から『服部先生が次に来るのはいつか』と聞かれる」という。住民の期待は大きく、治療を待つ患者は尽きない。

服部さんが手術をすべて終えた時、同センターのホ・バン・タン医師(48)が、「ここから西に行ったダラトでも診察してほしいとの声がある」と話しかけた。そして、来年4月をめどに服部さんが訪れることで検討が始まった。

服部さんが今、力を注ぐのが、現地での若手医師の育成だ。ファンラン市の活動には、10年以上、行動を共にしているブイ・ティエン・ホン医師(51)のほか、20代後半から30代の医師4人がハノイなどから同行し、手伝いながら、腕を磨いた。

ミスをすれば、「患者の目だけでなく、顔や全身を見ろ。自分の父親と思って治療しなさい」と、かつて自らも恩師に言われたように注意する。服部さんが当初からかかわるハノイの国立眼科病院では、すでに約30人の「教え子たち」も、高度な手術が行えるようになった。

郡部の人材育成にも努めている。ニントゥアン眼科センターのハイ院長は「センターの医師や看護師も技術や段取りを習得し、地元から信頼されるようになってきた」と語る。

服部さんが手術をすべて終えた時、同センターのホ・バン・タン医師(48)が、「ここから西に行ったダラトでも診察してほしいとの声がある」と話しかけた。そして、来年4月をめどに服部さんが訪れることで検討が始まった。


日本の医学生にも影響 

服部さんの活動は、日本の若者にも影響を与えつつある。

山口大学医学部3年生の酒井豊吾さんは、今年8月、服部さんに頼み込んでベトナムのバッカン省に同行し、荷物運びや患者に目薬を差すなどの手伝いをした。

手術の合間には、待合室のイスが足りているかといった細かいことにも気を使う服部さんに、「何年も医師をやっていたら忘れるかもしれない患者第一主義」の実践を見た酒井さんは、自らも忘れまい、と心に刻んだという。

聖マリアンナ医科大学4年生の大塚ゆかさんは、2年生を終了した春休み以来、すでに3回、服部さんの手伝いをしにベトナムを訪れた。言葉ではなく行動で、医者のあるべき姿を示す服部さんに、「医師を志した頃の気持ちを思い起こした」という。

内向きだと言われがちな日本の若者の心にも服部さんの熱い思いが伝わっている。


「私生活を犠牲に活動」 選考委員会座長・佐藤行雄

服部匡志さんは、ベトナムを中心としたアジアの国々で、無償の眼科治療を10年以上にわたって続けられています。  組織に属さず、日本と現地とを頻繁に往復、日本での医療活動で得た資金を投入して、機材や薬剤を調達されてきた。この活動は、個人的な生活を犠牲にした極めて献身的なものです。  治療費のない人を失明の危機から救うなど、「目」という日常生活に密接にかかわる分野で1万人以上に及ぶ人を治療されてきた服部さんは、読売国際協力賞にふさわしい方だと考えました。

(2013年11月01日 読売新聞)