第1回(1994年度) 緒方貞子 国連難民高等弁務官

本社が読売新聞創刊120周年を記念して創設した読売国際協力賞の第1回受賞者は、国連難民高等弁務官、緒方貞子氏に決定しました。正賞と副賞500万円を贈ります。

同賞は、日本の国際活動への参加を促し、その必要性について日本国民の認識を高める目的で創設されました。緒方氏は学者として、外交官として培った国際感覚を生かして、冷戦後最大の難問として浮上した難民問題に積極的に取り組み、大きな国際的役割を果たしたこと、およびその活動を通じて、日本国民に難民問題解決の緊急性と国際協力、国際参加への重要性を啓発したことを高く評価したものです。なお、国際公務員である緒方氏は賞金500万円全額を「難民救済民間基金日本支援委員会」に寄付されます。


第1回読売国際協力賞を受賞した緒方貞子さんが高等弁務官を務める国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は難民・避難民の保護を主目的としている。20年前、世界で250万人だった難民の数は現在、2300万人。また国境は越えていないが、難民と同じく自国政府の保護を受けられない国内避難民が2500万人おり、地球人口の約120人に1人が難民・避難民だ。このようにUNHCRの国際責務は増大するばかりだが、緒方高等弁務官は1991年1月、最高責任者に就任以来、UNHCRの実績を飛躍的に伸ばし、その世界平和と安定への貢献度は群を抜いている。受賞を機にUNHCRと緒方高等弁務官の功績を追った。

難民救済の最前線で奮闘

緒方貞子さんと国連とのかかわりは、故市川房枝さんとの出会いからだった。2人の子の育児、家事に追われながら、聖心女子大と国際基督教大学の講師をしていた68年、市川さんが突然訪ねて来た。国連総会の政府代表団の一員に加わるよう要請するためだった。

外交官の家に生まれて、子どものころ米国、中国で過ごし、米国に長く留学、結婚後、大学で教え始めた緒方さんは、政治運動とは無縁の道を歩んでいた。カリフォルニア大バークレー校で国際関係論の博士号まで取得した緒方さんの学識、語学力を高く評価した市川さんが、女性の地位向上の先兵として白羽の矢を立てたものだった。

41歳で国連総会に赴いて以来、緒方さんは国際政治学者より、国際行政官としての比重が高くなっていき、「初」の称号がついて回るようになる。

76年、女性としてわが国初の国連公使、2年後には女性初の特命全権公使に。その後の女性大使への道を開いた。

帰国後の79年、カンボジア難民政府調査団の団長として、タイ国境の難民キャンプを視察したことが、難民問題とのかかわりの始まりだ。

90年末、シュトルテンベルク前弁務官がノルウェー外相就任のため辞任し、突然空席が出来た。国連公使時代、国連児童基金(ユニセフ)議長としての活躍、国連人権委員会政府代表としてミャンマーの人権抑圧調査の実績から周囲がほうっておかず、上智大の教壇に立っていた緒方さんが候補になったが、「名乗りを上げた人が多かったので、なれるとは思わなった」という。

だが、ほとんど波乱もなく緒方弁務官の誕生となったのは、国連公使時代につちかった各国外交団の信頼もあるが、国際機関の長に日本人を据えて、経済大国日本にもっと本格的に国際貢献に乗り出させようとの世界の期待が、このころ急激に高まったからでもある。こうして第8代高等弁務官に就任した。

1951年に発足した難民高等弁務官は、40年後、初の女性弁務官を迎えた段階で激動期に突入した。冷戦の終結で民族紛争が頻発し、戦争、革命での外国への亡命、避難という古典的な難民の時代が終わって、民族紛争による国内難民、飢餓、貧困を逃れての経済難民という新たな難民が大量に発生し、国家の主権とからむやっかいな問題が浮上して来たのである。

難民高等弁務官の事務所の仕事の量も内容も、緒方弁務官になって一変した。世界の難民は、冷戦後の地域紛争の続発で「92年には1日当たり1万人の難民が発生した」(世界難民白書1993)という。当然職員数も激増する。緒方さんの就任時2300人だった職員は現在、4500人に、5億6千万ドルだった年間予算は13億ドルにとそれぞれ倍増した。

3年間で地球10周半

職員の8割強は250か所の前線に散らばる。事務所は難民高等弁務官に付随するという国連でもユニークな制度のため、トップダウン方式で、高等弁務官個人に仕事が殺到する。

今年春と夏の2回、ジュネーブの高等弁務官室で緒方弁務官の執務ぶりに接する機会があったが、朝9時から夜はたいてい8時までフルに活動し、無数の人に会い、書類を家に持ち帰って夜なべする。週末も土日のどちらかに出勤するという「異常事態」が就任以来常に続いている。年間の4分の1は世界を飛び回り、3年間で地球を10周半した。

国際機関の長が優雅な生活をするというのは、遠い昔話になった。超多忙なだけでなく、やっかみ、非難、批判、足の引っ張り合いがあることは、いくらも実例がある。その中で緒方さんは、多忙な点は人並み以上だが、その他の点は例外的に全く無縁である。だれに聞いても評判は上々で、今年1月、無風の中で再任(任期5年)が決まった。

妥協許さぬシンの強さ

好評なのは、難民発生と共に直ちに現地に乗り込み、先頭を切って職務に当たるその熱意だけでなく、簡単に妥協しないシンの強さにもある。ピント外れの質問をする記者に「もっと勉強をしなさい」としかったエピソードは、ジュネーブ記者会で外国人記者に語り継がれている。

国連の「難民の地位に関する条約(難民条約)」は難民の定義として「国籍、人種、宗教、政治信条などによって迫害を受けたり、受ける恐怖のある人が国外に逃れたり、自ら国籍国の保護を受けることを望まずに国外に居住する人たち」としている。

国際社会が初めて難民と認知し、保護に乗り出したのは1917年のロシア革命で生まれた白系ロシア難民に対してだ。その後、パレスチナ、ハンガリー、チェコ、インドシナ、最近のボスニア・ヘルツェゴビナ、ルワンダ難民の発生まで20世紀はまさに難民の世紀だったといえる。

難民の救済活動は1921年、探検家としても有名なノルウェー人、フリチョフ・ナンセンを高等弁務官とする国際連盟の「ロシア難民高等弁務官」の設置に始まった。戦後は国連に「国際難民機関(IRO)」が創設されたが、1951年、国連総会決議による「難民条約」の発効と同時に難民問題の恒久的解決を探る機関として国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が発足した。

しかし、「難民条約」は戦前に結ばれた種々の難民協定の集大成で保護の対象としたのは戦前に発生した難民だけだったため、戦後に発生した難民救済の道として1967年、「難民の地位に関する議定書」が成立、UNHCRなどに難民問題処理が任された。

UNHCRは当初、期間を3年間とした暫定機関だったが、難民問題には持続的対策が必要という観点から存続を5年ごとに更新することになり、現在のUNHCRは98年末までの活動が定められている。

UNHCR 113か国に192事務所

UNHCRの最高責任者である高等弁務官は国連事務総長の指名に基づいて総会で選出される。初代の高等弁務官はオランダのヴァン・ハーベン・グートハート。難民問題に関心の深い国で構成する執行委員会が予算などの監督を行っている。現在、執行委員会の加盟国は日、米、英など46か国。

ジュネーブ本部のほか、世界113か国に192の現地事務所を持ち、日本人職員は合計56人(7月現在)いる。年間予算は難民の発生状況などによって変化するが10億から13億ドル。93年度予算では日本はアメリカ、欧州連合(EU)に次ぐ3番目の資金拠出国だ。

UNHCRは「難民条約」が認定した難民の枠を拡大、戦災、飢餓などによって発生した難民も保護の対象としてきた。さらに、最近、国内避難民、本国帰還民に対しても国際的保護の必要性が国連で認められるようになり、UNHCRが保護を行っている。また、冷戦後、難民と区別が困難な不法な経済移民が大量に発生するなどUNHCRの仕事は一層、複雑多岐に及んでいる。

UNHCRの活動は世界のどこかに大量の難民が発生すると通常、難民が流れ込んでいる国の了解のもとに高等弁務官の裁量で資金、物資など支援計画をまとめ、世界に緊急アピールを発する。同時に現場で手足となる国際的な民間援助団体(NGO)に水、食料、医療などの分担を依頼する。

8月末現在、ザイールなどの周辺国に226万人の難民がいるルワンダの場合、4月に難民が発生した時点で空港管理、道路整備、治安維持などの基礎的支援とトラック、給水車など総額1億1516万ドルの援助計画(94年7月から10月まで)をまとめて緊急アピールを出した。

これに各国が資金援助と人的協力に応じ、米、仏、オランダ軍、現在は日本の自衛隊、それに「国境なき医師団」「アジア医師連絡協議会」などのNGOが267人のUNHCR職員と共にキャンプで難民の保護にあたっている。

最近の情報ではUNHCRキャンプでは食料、医薬品に毛布、せっけんなどの配給が軌道に乗り、7月下旬、キャンプ内に発生していたコレラ、赤痢などの疫病も収まり、日常生活は小康状態を保っているという。


「満場一致で受賞者決定」  選考委員会座長・浅尾新一郎

選考委員会は5月25日と9月6日の2回にわたり開かれた。今回、自薦他薦の計28の個人および団体の応募から読売新聞社内の推薦委員会が候補者を3件(個人1人と1団体)に絞り、選考委員会に推薦があった。

これを受けて出席の選考委員より授賞理由(受賞者の地位、身分、活動実態とその成果)や授賞後に起こりうる影響などについて質問や意見が出された。複数受賞者問題や授賞決定の方式についても意見を交わした。第1回の会合では結論は出さず、候補者の動向を見極めつつ、第2回会合で候補者を決定するよう申し合わせた。

第2回会合では選考委員一人ひとりが3候補者について意見を出した結果、満場一致で緒方貞子・国連難民高等弁務官を第1回受賞者に決定した。

最後まで残った3候補者は各々有力な方ばかりであり、特に2人の個人については甲乙つけ難く、選考委員としては苦慮した。緒方さんが選ばれた理由は、増大する難民問題への貢献、危険をかえりみない活動、権力を求めない謙虚なお人柄にあったとみられる。選考委員一同、何人も緒方さんの受賞には反対しないと感じている。

(1994年9月30日 読売新聞)