第3回(1996年度)読売国際協力賞 明石康 国連事務次長・人道問題局長、
特別賞:遠山正瑛 鳥取大学名誉教授、遠山柾雄 同大助教授

国際社会で顕著な業績を残した個人、団体を表彰する読売国際協力賞の第3回受賞者は、カンボジア和平などに功績のあった国連事務次長・人道問題局長の明石康氏(65)に決定しました。また、中国などで砂漠緑化活動を展開している鳥取大学名誉教授、遠山正瑛氏(89)と同大助教授、柾雄氏(57)を、特別賞に選びました。明石氏には正賞と副賞500万円、遠山氏父子には正賞と副賞300万円を贈ります。

本賞は、読売新聞創刊120周年を記念して94年に創設されました。
 明石氏は、国連カンボジア暫定統治機構の事務総長特別代表としてカンボジアを和平に導き、旧ユーゴスラビアでも事務総長特別代表を務め、停戦の基礎づくりに貢献しました。

遠山氏父子は、鳥取砂丘で培った農業技術を生かし、中国で100万本の植林を達成するなど世界各地で砂漠緑化活動を続けています。


第3回読売国際協力賞を受賞した明石国連事務次長・人道問題局長は国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)特別代表、旧ユーゴスラビア担当事務総長特別代表など世界の紛争地域での和平に向けての活動ぶりが選考委員全員から高く評価された。一方、特別賞を受けた鳥取大名誉教授で日本沙漠緑化実践協会の遠山正瑛会長、長男で同大助教授の柾雄副会長父子は中国・内モンゴル自治区での植林活動などが受賞対象となった。両賞受賞者の主な業績を紹介する。

UNTAC特別代表時代 「話し合い路線」貫く

夜半からのスコールがあがり、ぬかるみの中プノンペン市民が、市内の学校や寺の境内に設けられた投票所に続々と押し寄せた。1993年5月23日。カンボジア総選挙投票日初日の早朝の光景だ。

どの投票所も黒山の人で、警備の警察官もさばき切れない。この熱気こそ国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が1年2か月にわたり進めてきた和平努力が大きく報われたことを物語っていた。明石氏が今も「人生最良の日」と振り返る一日だ。

13年にわたるカンボジア内戦に終止符を打つことを目指し、UNTACがプノンペンに発足したのは92年3月15日。明石氏は翌年9月24日までの約1年半、カンボジア全土を文字どおり東奔西走した。UNTACは、選挙の成功(投票率89・04%)に続き、シアヌーク殿下を国王とするカンボジア王国の再興も実現、国連平和維持活動(PKO)の輝かしい成功例に数えられる。

しかし、UNTACの道のりは決して平坦(へいたん)ではなかった。シアヌーク殿下は時にその気まぐれぶりを発揮、ジャングルに立てこもる共産主義集団ポル・ポト派は武装解除を拒否し、和平に背を向け続けた。

 明石氏はこれらの困難を打開するため、各派の支配地域を国連ヘリで飛び回り、政治指導者たちと個人的な関係を築き、「話し合い路線」を貫いた。人権問題などでは西欧的民主主義の杓子(しゃくし)定規の適用ではなく、柔軟性を持った対応をとった。こうした明石氏の手法はアジアの国であるカンボジアの指導者たちにも受け入れられやすかった。

また日本のPKO参加をめぐって、日本と世界の間の「常識」のズレを埋める調整役を果たした。自衛隊のPKO貢献は明石氏の存在を無くしては有り得なかったかもしれない。

新政府発足後のカンボジアは連立与党であるフンシンペック、人民両党間に不協和音が伝えられ、またジャーナリストに対するテロなど人権抑圧の芽も払拭(ふっしょく)されていない。

しかし、最近ポル・ポト派の一部が離脱し新政府と和平交渉に入るなど、最大の懸案、ポル・ポト派問題にもようやく解決の光明が認められる。また順調な経済成長を背景に、来年の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟も決まっている。

明石氏は日本人記者との会食の席などでUNTAC成功の条件としてしばしば「天の時、地の利、人の和」という言葉を口にした。この格言に、カンボジアの現状に溶け込み、柔軟な現実主義を発揮した明石氏の信条がよく込められているように思われる。

旧ユーゴ特別代表時代 中立の立場を譲らず

93年11月。カンボジアからニューヨークに戻ってわずか2か月後、明石氏はガリ国連事務総長から、新しい仕事の打診を受けた。旧ユーゴスラビアでの国連平和維持活動(PKO)の最高責任者の大役だ。もちろん、カンボジアでの業績を見込まれての起用である。

この時、国連本部勤務の選択肢もあったが、明石氏は旧ユ―ゴ行きを即決した。「国連本部で各国代表の高邁(こうまい)な演説を拝聴しているより、仕事の成果を実感できる現場の方が私の性にあっている」。引き受けた理由をこう語っている。

翌年1月、旧ユーゴスラビア担当事務総長特別代表として、ザグレブの国連防護軍本部に着任した。当時のボスニアは、紛争の火が燃え盛っていた。91年に、クロアチア、スロベニアの旧ユーゴからの独立をきっかけに始まった旧ユーゴ内戦は、翌年には、イスラム教徒、セルビア人、クロアチア人の3民族が混在するボスニアに広がっていた。

米国を軸とする欧米は、「セルビア人=侵略者、イスラム教徒=被害者」の図式を持っていたが、明石氏は、中立性保持を大原則に掲げ、「武力より交渉」を基本に各勢力代表者と精力的に直接交渉を重ねた。この結果、これまで悪役として非難されていたセルビア人勢力が、徐々に態度を軟化させ、何度か停戦にもこぎつけた。

しかし、一方で、米国には明石氏の姿勢が「セルビアびいき」に映り、ボスニア政府(イスラム教徒主導)からの辞任要求など風当たりが強くなった。

「中立的な調停者は、すべての当事者に批判される運命を担っている。みんなからほめられようと思ったら、こんな仕事はとてもできない」。非難に対する明石氏の言だ。

対セルビア人強硬論台頭で、和平調停の主導権が国連から米国主導の北大西洋条約機構(NATO)に移り、昨年10月に代表を辞任した。しかし、明石氏は、大国の言いなりにならない国連の中立性を国際社会に強く印象付けた。

また、日本との関連では、日本人になじみの薄い旧ユーゴ紛争に目を向けさせた功績も大きい。さらに、各当事者と渡り合う明石氏の姿が、連日、欧米のテレビニュースに映ったことは、国際協力といえば「カネを出すだけ」とみられがちな日本の国際イメージ改善にもつながったことは間違いない。

砂漠緑化に情熱を注ぐ 内モンゴルに植林130万本

遠山正瑛・柾雄両氏は、鳥取砂丘で培った技術で、世界の砂漠緑化に取り組んでいる。

 正瑛氏は戦時中、中国留学を経て砂地農業の研究を開始。砂丘で長芋、スイカなどの栽培に成功した。そんな中で「いつか中国の砂漠を緑にかえ、日中友好に役立ちたい」との思いを抱き続けた。正瑛氏の情熱は、91年の日本沙漠緑化実践協会(本部・東京)設立で結実。全国から「緑の協力隊」を募り、中国・内モンゴル自治区のクブチ砂漠に派遣し、ポプラ苗を手作業で植え付ける活動を展開している。

これまで参加した植林ボランティアは小学生から労組員まで、延べ93隊2100人。植林本数は昨年夏に100万本、今月初旬に130万本に達した。正瑛氏は、年間300日は現地に滞在して陣頭指揮を執る。90歳を目前にして、いたって元気だ。

柾雄氏は、父の情熱を受け継いで同じ道に進んだ。協会の副会長を務めて父を補佐する一方、メキシコやエジプトなど世界の砂漠を飛び回りながら、各地で農業指導を続けている。

砂漠では、柾雄氏が試行錯誤の末に確立した「節水農法」を活用し、野菜や果物を育てる実践活動を展開する。紙おむつなどに使われる保水剤を砂に混ぜ、少しずつ水を与える農法で、各地で成果をあげている。

 柾雄氏はまた、自ら「グリーンハット基金」(本部・鳥取市)を率いて、エジプトやアラブ首長国連邦の砂漠研修ツアーなども進めている。2人が表現するように、「父は明治方式、長男は平成方式」で砂漠と向き合いながら、「砂漠に緑を」という共通の目標に突き進んでいる。


「尊敬すべき業績」  選考委員会座長・浅尾新一郎

第3回読売国際協力賞の選考委員会は、委員全員の出席のもと、9月4日に開催された。今年は、自他薦ほか事務局の推薦を含め、個人8、団体4、計12件の候補があった。前2回の例にならい、読売社内の推薦委員会が候補を絞り、選考委員会は個人2、団体1の計3件を選考対象とした。

選考委員会ではまず、公募の方法や選考基準について事務局の説明を求め、意見交換を行った。次いで各委員より、前述の推薦候補のほか応募者の数人についても意見が述べられた。

その結果、全会一致で明石康氏を第3回受賞者に決定した。明石氏を選んだ理由は、長年にわたる国連職員としての活躍、特にカンボジア和平を見事になしとげたほか、旧ユーゴ問題でも困難な時期に現地代表をつとめ、停戦に至る基礎構築に寄与したこと――などが挙げられる。

また、「地道な国際協力をされている方も受賞すべきである」との各委員の要望もあり、今回は全地球的問題である砂漠緑化運動に貢献されている遠山正瑛・柾雄親子に対しても読売国際協力賞特別賞をさしあげることになった。

(1996年9月15日 読売新聞)