文学フォーラム東京 書き続けた 戦後  人間と世界 探る

「作家がそれぞれに生きた同時代」

ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「21世紀の創造」文学フォーラム東京(主催=読売新聞社、NHK)が11月27日、文学賞受賞者の大江健三郎さん(1994年受賞)とJ=M・G・ル・クレジオさん(フランス、2008年)を迎えて、東京・恵比寿の日仏会館で開かれた。

テーマは「作家がそれぞれに生きた同時代」。長年、互いの作品に感銘し合い、それぞれに新たな文学の地平を切り開き続けてきた両氏は、初顔合わせにもかかわらず、現代世界の核心に迫る作家の問題意識を深く語り合った。(文中敬称略)

写真:フォーラムの様子
対談する大江健三郎氏(左)とル・クレジオ氏
参加受賞者(受賞順)
大江健三郎(1994年文学賞)
M・G・ル・クレジオ(2008年文学賞)

対談 大江健三郎氏 ル・クレジオ氏

出会い

大江ル・クレジオさんが23歳で『調書』によってデビューされたのは1963年。5歳年上の私はすでに作家だった。すぐにその“Le Proce`s‐verbal”をフランス語で読み、アダム・ポロという主人公に興奮した。直後、あなたを日本ペンクラブの世界大会へ招く手紙を書くよう依頼されたのは私だが、きれいな手書きの断りの返事が来た。

「仏訳された日本の若い作家の『壁』を読んで感心した。多分あなたの作品だと思う」。それは安部公房の作品でしたが(笑)。

続けてあなたの短編集『発熱』と哲学的なエッセー『物質的恍惚(こうこつ)』、長編『大洪水』まで続けて読んだ。そして私は感じた。「新しい世界を表現する言葉を発見したル・クレジオは、『大洪水』に至り、その世界を終わりまで描ききった。彼はもう小説をやめて、新たな分野に移っていくだろう」

『大洪水』の最後には、核兵器に炎上する世界が描かれ、太陽を見つめる語り手の目はつぶれる――。そこまで読んだ私は、「この作家から離れるほかない、新しい日本語で表現し続け、自分の小説の世界が終わるまで書くほかない」と決心した。

しかしあなたは、そして私も書き続けた。今度、あれ以後のあなたの小説を何冊も読み、「彼は強く書き続けた」と感銘を受けた。

クレジオ私たちが出会うまでにはかくも長い時間が必要だった。出会いが実現して本当にうれしい。

最初に手紙をもらった時、私はペンクラブが何かも知らず、失礼な誤りを犯してしまった。だがその後、アメリカで仕事を始めた私は、英訳された数多くの大江作品を読んできた。あなたの小説は常に私への疑問提起であり、あなたの関心事は私の関心事と重なった。

地方出身の若手だった私は、実存主義やヌーヴォー・ロマンなど仏文学の当時の主流から距離を取り、独自の道を探ったが大江さんも日本で同様の立場を選ばれたのではないか。われわれは共に本物の、神聖な文学を求めて歩み続けてきた、戦後の作家なのだ。

最初に読んだ大江作品は『セヴンティーン』で、私の『調書』にもサルトルの作品にも似ていると感じ、感銘と影響を受けた。他にも『芽むしり仔撃ち』『父よ、あなたはどこへ行くのか?』『万延元年のフットボール』『新しい人よ眼ざめよ』、英訳が始まった『取り替え子(チェンジリング)』も。

あなたの持論通り、作家は出発点からすべてが与えられており、あとは少々変化をつけて繰り返すに過ぎない。フラナリー・オコナーも5~10歳の間にすべてが決まると言った。私はすでに『セヴンティーン』の中に、すべての大江作品は発生していたと思う。

作家の実人生、生涯と作品を切り離すことはできない。個人的な記憶を小説に投入すると、想像力の欠如だと批判されたりする。だが私たちはいわゆる戦後の問題のために、世界と個人的な記憶の関係を、特別に重視する道を選んできたのではないだろうか。

世代

クレジオ2度の世界大戦を経て植民地時代は終わり、私たちは戦争に加わった自分たちの父親を責めつつ、自分にも非があるような負い目を持つ世代だ。私たちは戦争によって失敗した世界との関係を、政治的にでも社会的にでもなく、小説によって、いわば精神的に分析してきたのではないかと思う。

大江さん、ロシアに生まれ米国に亡命したノーベル賞詩人、ジョゼフ・ブロツキー(1940~96年)、そして私は同じ時代に生まれ、等しく戦争について作品で語ってきた。3人とも従軍して戦争を直接体験してはいないが、戦争による空白、余波を知り、戦争にまつわる現象と切り離せない時代に育った。

それはある意味で精神が弱体化し、家族の破綻(はたん)という父親の失敗、父権の失墜が起きた時代だった。この事実が私たちに共通する。私たちは戦争を行った国の息子たち、戦争に負けた国の子供たちだ。

二十歳の頃、フランスはアルジェリア戦争を行っていて、私は戦争に行く息子になりかかった。戦後、長い時を経て帰宅した父親は私に亡命を勧めたが、私は小説を書き始めた。

「敗者は勝者であり、勝者は敗者である」。私はよく古代インカのことわざを思い出す。すべての戦争は結局、負ける事しか出来ない。私は政治論文でも哲学の論考でもなく、小説でしか戦争の決算報告を書けなかった。戦争に向かう人間の愚かしさ、卑しさを、妥協せず告発し続けてきた大江作品に、私は共感する。

生き方

大江あなたのお話が、私の生きてきた筋道と小説の問題、両方に深く結びつくことに改めて驚く。

私は大学でJ=P・サルトル(1905~80年)を読んで現実と文学に目覚めたが、彼の現実参加と別の歩み方をした。60年代半ばのフランスには、サルトル以後の戦争を直接体験した良い作家が何人もいた。ロブ・グリエ、ビュトール、ナタリー・サロート、クロード・シモン。

そして彼らと違う方向へ生きていく作家として、私はあなたを発見した。あなたは先行していくが、自分に近いと感じて。

あなたはあるインタビューで、「自分は人間同士の戦い、それから人間と社会、人間と世界の戦い、さらに物と物、社会と社会の戦いについて書かざるを得ない、それが小説を書くということだ」と述べていたが、今日、そこで語られていた続きを直接、聞いたように思う。

「私はあらゆる戦いを小説に書く。しかし、すべての戦いにおいて私たちは負ける。すべての戦いは負け戦だとはっきり認識した人間として、私は小説を書いている」

『大洪水』で終わった、と私の考えていた戦いは、そのようにして続いてきたのだ、と。それを聞いて、私はル・クレジオさんの生き方、立脚点が本当によくわかった。同時に、私がやってきたこともそのことだったと考えた。

父親

大江50年以上、小説家として生きてきた。私の人生は小説家の人生で、私の人生の習慣は書くことだったと、74歳になって納得する。

写真:対談
「父の不在が私の文学的な流れを培った」と語るル・クレジオ氏

今も新しい長編『水死』を書き終えたところ。この小説は第2次大戦末、戦争に負けるとはどういうことか――日本人が長い歴史で初めて理解しなければならなくなった時期の話だ。

小説の語り手の「私」の「父」は民間人だが、非常に軍国主義的、超国家主義的に思い詰めた思想的な師や軍人たちとの付き合いもあった。ところがついに敗戦に追い込まれると、一人で水死してしまう。

 

実際の私の父は1944年、私が9歳の時、突然亡くなった。なぜ死んだか誰も語らない。子供の私は、記憶の断片を小説の細部のように夢に見続け、次第に物語を大きくした。

 

95歳まで生きた母親は、私が作っている父親像は間違っていると言い続けて、10年前に死んだ。今度『水死』を書き終えて私が考えるのも、「戦争とは負けるための戦いである」ということ。自分は戦争の間に父親を失い、それは自分の文学を決定した。

 

地方の民間人の父親が、戦争で敗れることを恐れて死んだ。それはどういうことだったのか、と私は想像し続けた。私の話すことがウソだと否定したのが母親。それに抵抗して9歳の時に発想した『水死』を今、書き上げた。

 

あなたが『大洪水』を発想されたのも12歳だったという。そしてやはり長い時をかけて、世界の終わりを見つめる物語を書かれた。このように想像を始める子供とは何だろうか。

クレジオ私の人生には、大江さんほどの悲劇的事件は起こらなかった。ただしアフリカで行方不明になった父親の、長い不在があった。母が語る公式見解は「戦争のために帰れなかった」。だが、実際には父は捕虜になり、家族を放棄していた時期があったと思う。

 

私には「何かが足りない」との思いが常にあった。戦後何年もたって父が帰宅した時、彼は見知らぬ人になっていて、私は幼時の記憶とつなぎ合わせることが困難だった。そうした日常的な場面の一つひとつが、私の文学的な流れを培って行ったのだろう。

 

私たちは、だからA・マルローの『人間の条件』のような作品は書かない。アラゴン、カミュの後継者になるつもりもない。父親の世代に失望し、フランス共和国の精神に蹂躙(じゅうりん)されたのだから。

 

フランス人とは何かと考える以前に、人間存在とは何か。それを私たちは考えてきた。作家は至る所に属するし、どこにも属さないと感じる種族だ。

 

作家が唯一属する世界は子供時代、少年時代につながる世界だ。

 

大江さんと同じく、私もアルプス山脈の「森」の近くで育ち、美とは、愛とは、嫉妬(しっと)とは……そして残酷さや性的衝動の始まりを発見した。インスピレーションの源泉がその場所にある。地球への信頼、母語である言語への愛着がやがて加わり、12歳の時、私は『大洪水』を発想した。

なぜ書くか

クレジオそれにしてもなぜ、父親の世代の作家も思想家も、誰一人、戦争を止められず、恐ろしい戦争に参加してしまったのか。L=F・セリーヌ(1894~1961)は偉大な作家で植民地主義を嫌っていたにもかかわらず、歴史に翻弄(ほんろう)された。作家はいつも危険な状況下にある。それでも「なぜ、書くのか」。あなたと共に考えてみたい。

大江私の書き方は、よく日本人のアイデンティティーを確かめるものだといわれるが、むしろ四国の森の中で生まれた人間の物語なのだ。政治的な手段として小説を書くことはない。核兵器に反対するのが一生の課題で、評論を書き続けるが、小説で政治的成果をあげるのは不可能だと、サルトルを見て学んだ。

 

現代では、例外をのぞき売れる見込みもなくなった文学作品をなぜ私は書くのか。ここで私もセリーヌを思い浮かべる。若い私はサルトルを学びながら、彼の敵のセリーヌを読んでいた。

 

50年たって心に残っているのはサルトルではなくセリーヌの小説「亡命三部作」の中の『リゴドン』だ。フランス人の彼が第2次大戦中、ドイツで連合国側の空襲から逃げ惑った体験を元にしている。

写真:対談を終えて
対談が終わり、大江氏は1960年代前半に読んでいた「調書」の原書を著者のル・クレジオ氏(右)に手渡し、メッセージを書き入れてもらった
 

彼は汽車の中で知的障害を持つ20人ほどの子供と乗り合わせる。引率する女性教師は重い肺結核で、彼に生徒たちの世話を託して息絶えてしまう。医者でもある彼=セリーヌは、壊滅した町で子供らと食糧を探し出して生き延びる。最後、中立国行きの船に子供らを乗せ、命を助ける。

 

セリーヌの書いた反ユダヤ主義のパンフレットなど、読むに堪えない。だが、非常に残酷で滑稽(こっけい)ですらあった子供たちとの不思議な旅を、見事に人間的な小説に書いたのもセリーヌだ。

 

私も『人間の条件』のような社会的に大きい小説を書いて、日本の伝統の私小説を壊してやろうと作家になった。しかし28歳で障害を持つ子供の父親となり、その子供を中心に書くという基本態度に転換した。

 

作家は社会的に意味のない存在だと批判されても仕方がない職業だが、それでもセリーヌは『リゴドン』を書き、私も知的障害者の子供を裏切らないで、50年小説を書き続けた。それが私の「なぜ書くか」への答えだ。

<対談の詳報は「中央公論」2010年2月号に掲載されます>

  • 主催=読売新聞社、NHK
  • 後援=外務省、文部科学省、科学技術振興機構
  • 協賛=トヨタ自動車、日本航空、清水建設
  • 特別協力=在日フランス大使館、日仏会館

(2009年12月16日 読売新聞)