紙面の変遷、世相を映す
読売新聞は2015年4月9日、創刊からの号数が5万号に達しました。
日本が近代国家として歩み始めた直後の1874年(明治7年)11月2日に第1号が出た読売新聞の題号は、現存する新聞で最も長い歴史を誇ります。
5万号を迎えた読売新聞の特集記事で、明治期以来の紙面の歩みを振り返ります。
5万号の歩み...1面で振り返る
創刊号 1874年11月2日
自由民権運動が起こり、多くの新聞が政論をたたかわせる中で、市井の話題を主とする小(こ)新聞として登場しました。ほぼ半紙大で表裏2ページ。「政府」に「おかみ」と傍訓をふるなど、記事を分かりやすくする工夫で庶民に支持されました。


5000号 1891年5月15日
1面で5月11日に発生した「大津事件」について報じました。来日したロシア皇太子ニコライが滋賀・大津で警備の巡査・津田三蔵に斬りつけられて負傷した事件について、皇太子の負傷状況、「兇徒(きょうと)」の事件前後の様子、滋賀県警の心痛を詳報。大津から京都に移動した皇太子に対する市民の心配する様子も伝えました。

1万号 1905年4月8日
日露戦争(1904~05年)の旅順開城から3か月余り、日本海海戦を約1か月半後に控えた時期の紙面。1面にニュースを載せる慣習がなく、「一萬號(まんごう)」を記念する漢詩がトップです。戦況については、2面に「其後(そのご)の敵状」として、敵側の歩兵中隊の動きを伝えました。


1万5000号 1919年1月5日
1面はトップに「半世紀の追懐」を掲載。1874年(明治7年)の創刊以来、神風連の乱や佐賀の乱、国会開設、条約改正などがあったことを振り返り、「故(ふる)きを温(たづ)ぬるは新しき知る所以(ゆえん)なり」としています。徳富蘇峰が「祝詞」、三宅雪嶺が「読売新聞と婦人問題」、島崎藤村が「読売新聞と私」と題する文章を寄稿しました。

2万号 1932年10月22日
1面は全面広告です。2面にニュースを載せ、トップは「松岡代表鹿島立ち」。満州事変に関するリットン報告書に反論するため、松岡洋右代表が国際連盟総会に向け東京駅を出発したと報道しました。後の総会で満州国の正当性が否認され、1933年、日本は連盟を脱退しました。


2万5000号 1946年8月10日
第2次大戦の敗戦による連合国軍総司令部(GHQ)による占領下、1面は同司令部が「財閥解體(かいたい)の意義」を表明したとする記事です。「好ましからざる親会社の所有者を一掃する」としています。新国会法案の骨子が固まったことや、ソ連が対日賠償会議でアメリカの提案を妨害し、拒否権を発動するとの見通しも報道しました。

3万号 1960年5月10日
冷戦のさなか、ソ連を偵察飛行していたアメリカの偵察機が撃墜された「U2撃墜事件」が5月1日に発生。これを受け、1面トップは「黒いジェット機波紋広がる スパイ禁止できぬ」と、衆院安保特別委員会の質疑内容を報道しました。「栃錦きょう引退」の報道もあります。


3万5000号 1974年2月1日
前年に第4次中東戦争が勃発し、第1次石油危機が進行するさなかの紙面です。1面は、共産主義者同盟赤軍派とPFLP(パレスチナ解放人民戦線)を名乗る日本人3人とアラブ人風の1人が、シンガポールのシェル石油製油所の石油貯蔵タンク爆破を図った事件を報じました。危機を受けての連載「石油狂乱 制圧の道」もあります。

4万号 1987年10月25日
バブル経済の時代。第一相互銀行による最上恒産グループへの556億円過剰融資が判明しました。金融機関の不動産業者への過剰融資が地上げを招いたと問題視しました。昭和天皇が先の大戦に関し、沖縄の苦難に「悲しみと痛み」のお言葉。皇太子さま(現・上皇さま)が代読されました。


4万5000号 2001年7月17日
官僚批判が強まった時代を象徴するように、1面トップは「外務省課長補佐 逮捕」。2000年7月の沖縄サミットで外務官僚がハイヤー代金を水増し、2200万円を詐取した容疑で逮捕されたことを伝えました。国際オリンピック委員会(IOC)の新会長にジャック・ロゲ氏が選出されたことも報じています。

5万号の特集紙面から
5万号 2015年4月9日
2015年は戦後70年の節目。1面トップは、日米同盟の強化と自衛隊の国際平和協力活動の拡充を図る、安全保障の新法制の整備に関連する動き。日本の安全保障の強化に重要な意義を持つ新法制の動きは、この日以降もしばしば1面に登場した(9月に国会で成立)。天皇、皇后両陛下が、第2次大戦の激戦地・パラオを慰霊のために初訪問されたことも報じた。
