読売新聞小史
明治・大正・昭和(戦前)
1874年(明治7年)11月2日読売新聞を創刊
読売新聞は1874年(明治7年)11月2日、半紙大の裏表2ページで創刊されました。題号は、江戸時代の「読みながら売る」かわら版の販売方式に由来します。発行所は、東京・虎ノ門の日就(にっしゅう)社。創刊時の部数は約200部でした。漢字の脇に、その意味を話し言葉風に注記するなど、大衆にも読みやすい紙面が評判を呼びました。
1897年(明治30年)1月1日尾崎紅葉「金色夜叉」の連載開始
明治期の読売新聞の特色は、文芸重視の紙面づくりにありました。1889年(明治22年)には文豪・坪内逍遥が文学主筆に就任し、若手作家の尾崎紅葉、幸田露伴も入社しました。紅葉が97年(明治30年)元日から「金色夜叉」の連載を始めると、間貫一とお宮の物語は大人気となります。ほかにも、田山花袋、樋口一葉、泉鏡花、島崎藤村らが次々と健筆を振るいました。
1914年(大正3年)4月3日「よみうり婦人附録」を新設
「よみうり婦人附録」は、今日の「くらし家庭」面の原型です。女性読者のために毎日1ページを割き、流行や暮らしのヒント、投書などを掲載しました。日本の日刊紙で初の本格的な家庭面でした。1914年(大正3年)5月2日にはこのページに「身の上相談」が設けられ、読者の悩みに答える人気コーナー「人生案内」の1世紀の歴史がスタートします。
1917年(大正6年)4月27日「東海道駅伝徒歩競走」を開催(駅伝競走の始まり)
1917年(大正6年)4月に開催した「東海道駅伝徒歩競走」は、江戸が東京になって50年の記念事業でした。京都・三条大橋から東京・上野の博覧会場までの516キロを23区間に分け、関東組と関西組の学生たちが昼夜なしに東海道を走り続けました。勝ったのは関東組。駅伝という競技も、その言葉も、このイベントから始まりました。関東組の最終走者を務めた金栗四三(かなくり・しそう)は、日本の長距離選手の強化に努め、20年(大正9年)の第1回箱根駅伝の創設にも尽力しました。
1923年(大正12年)9月1日関東大震災で本社社屋が炎上
1923年(大正12年)9月1日は、読売新聞社の新社屋落成祝賀会が予定されていました。新社屋の場所は、今日、プランタン銀座が立つ銀座3丁目です。しかし、祝賀会が始まる6時間前に、関東大震災が発生。新社屋は倒壊を免れましたが、夜の猛火で炎上。新聞発行は4日間停止します。読売新聞社が震災で受けた痛手は甚大で、13万部超にまで伸びていた部数は5万部台に低迷し、経営危機を迎えます。
1924年(大正13年)2月25日正力松太郎が第7代社長に就任
関東大震災で大打撃を受けた読売新聞社の経営再建にあたったのが、第7代社長の正力松太郎(1885~1969年)です。警察官僚だった正力は、摂政宮(後の昭和天皇)狙撃事件の責任をとって官界を去っていました。正力は、元内務大臣の後藤新平から10万円という当時では大金の援助を得て、読売新聞社の経営権を獲得します。1924年(大正13年)、社長に就任すると、紙面改革や経営基盤強化を大胆に進め、部数の大躍進に成功します(1938年11月に100万部を突破)。正力は戦後、占領軍に戦争協力の責任を問われ、A級戦犯容疑者や公職追放の身になりますが、日本の主権回復後の54年(昭和29年)、社主に就任。政界にも進出し、北海道開発庁長官、科学技術庁長官などを歴任しました。
1925年(大正14年)11月15日「よみうりラヂオ版」を新設
1925年(大正14年)7月、ラジオの本放送が始まりました。読売社内では「ラジオは新聞の競争相手」と考える人が少なくありませんでしたが、11月15日、2ページの「よみうりラヂオ版」を創設し、番組紹介を始めました。今日のテレビ・ラジオ欄の原型です。これが大反響を呼び、月に何千の新規読者の獲得につながりました。他紙も次々と追随していきます。
1931年(昭和6年)11月25日夕刊を発行
1934年(昭和9年)12月26日巨人軍の前身「大日本東京野球倶楽部」発足
読売新聞社は1931年(昭和6年)と34年(昭和9年)の2回、米大リーグの選抜チームを招いて「日米野球」を開催しました。この成功を基に社長の正力松太郎は、プロ球団のチーム編成に乗り出し、34年12月26日、「大日本東京野球倶楽部」が発足します。沢村栄治、水原茂らを擁する強力チームの誕生でした。翌35年(昭和10年)の米国遠征をきっかけに、「巨人軍」の名が生まれます。正力はチームを結成するだけでなく、阪神電鉄や阪急電鉄などに呼びかけて「日本職業野球連盟」を創設し、36年(昭和11年)に第1回職業野球リーグを開催。現在まで続くプロ野球はここからスタートし、読売の名前も全国に広がります。
1936年(昭和11年)7月25日オリンピックを「五輪」と紙面で初めて表記
1936年(昭和11年)はベルリン五輪の年でした。7月25日の読売新聞夕刊に、「五輪旗 伯林(ベルリン)に着く」と登場しますが、これがオリンピックを「五輪」と言い換えた最初の例です。のちにスポーツ評論家となる運動部記者の川本信正が、菊池寛の随筆に出てきた宮本武蔵の「五輪の書」にヒントを得て、五つの輪と「ゴリン」の語感の良さから、この言い換えを発案したといいます。その後、「五輪」は、オリンピックを表す簡潔な表現として定着しました。
1945年(昭和20年)5月25日米軍機の東京大空襲で本社社屋が炎上
1941年(昭和16年)12月に始まった日米戦争は、日本の戦局が不利になるにつれて読売新聞社に再び苦難をもたらします。政府の新聞統制強化で、東京の名門紙・報知新聞と合併し、題号を「読売報知」に変更しました(1946年5月、「読売新聞」に復活)。さらに、45年(昭和20年)5月25日夜の大空襲で、銀座の本館と有楽町の別館(元報知社屋)が炎上しました。応急の仕事場は築地本願寺に設置。印刷は朝日新聞(一時期は毎日新聞)に依頼して発行する状態が続きます。自前の発行再開は、戦後の45年10月1日付からでした。
昭和(戦後)
1946年(昭和21年)7月1日読売新聞の題字を隷書体で表記
現在の読売新聞の題字は、1946年(昭和21年)7月1日朝刊から使われています。当時の新進書家・印南渓龍(いんなみ・けいりゅう)が隷書体(れいしょたい)で書きました。隷書は、古代中国・秦(しん)の始皇帝の時代に、簡単に早く書ける文字として生まれた漢字の書体の一つです。印南は3日間で100枚超の題字を揮毫(きごう)し、5枚ほどの候補の中から編集局長が選びました。
1946年(昭和21年)9月1日読売信条を発表
1946年(昭和21年)10月16日読売争議が終結
読売新聞では終戦直後、2度にわたる大きな労働争議が発生します。1945年(昭和20年)10月23日、社員大会が開かれ、経営刷新、従業員組合の結成などを決議しました(第1次読売争議)。社長の正力松太郎が運動指導者らの退職を命じると、組合側は新聞編集・制作を組合の管理下に置いて対抗します。12月、経営側と組合側は、正力社長退任などの「協定覚書」を締結していったん収束しました。しかし、46年(昭和21年)6月、占領軍が組合の紙面支配を問題視し、争議が再燃(第2次読売争議)。10月、争議団指導者ら6人の退職などで合意し、解決に至ります。
1949年(昭和24年)3月1日朝刊1面に「編集手帖」を常設化
読売新聞朝刊1面の人気コラム「編集手帳」は、1949年(昭和24年)3月1日から始まりました。当初は「編集手帖」と表記し、雑誌の編集後記のようなつもりで、一日のニュースを通して感じたことを書く欄という位置づけでした。1953年(昭和28年)8月に表記を「編集手帳」に変更しました。
1952年(昭和27年)11月25日「大阪読売」を発刊(全国紙への飛躍)
朝日新聞や毎日新聞は発祥の地が大阪であるのに対し、読売新聞は東京発祥です。大阪進出は戦前、何度か試みましたが、戦争の影響もあって挫折していました。52年(昭和27年)11月25日発刊の「大阪読売新聞」は、無料試読紙として6日間配り、12月1日に有料に切り替えました。77万部の好スタートを切り、読売新聞は「全国紙」に脱皮していきます。
1953年(昭和28年)8月28日日本テレビが本放送をスタート
終戦直後に読売新聞社長を退いていた正力松太郎は、新たなメディアとしてのテレビに着目し、テレビ局開設に乗り出します。1952年(昭和27年)7月、日本で第1号のテレビ放送免許を取得。日本テレビ放送網の社長には正力が就任しました。本放送の開始はNHKより半年遅い53年(昭和28年)8月28日でしたが、「街頭テレビ」設置のアイデアで、テレビは急速に普及していきます。
スクープ記事
1954年(昭和29年)3月16日第五福竜丸がビキニ水爆実験で被曝(菊池寛賞)
1954年(昭和29年)3月1日未明、静岡県焼津港に所属する「第五福竜丸」が、中部太平洋のビキニ環礁で米国の水爆実験に遭遇し、乗組員23人が被曝しました。帰港翌日の15日夕、焼津通信部の安部光恭記者は、知人から被曝情報をキャッチし、東京の社会部と連携して取材を進めます。東大病院に搬送されていた被曝者の取材に社会部記者が成功し、16日の朝刊社会面トップ(大阪は1面トップ)で報じます。日本の漁船の被曝は、日米両政府とも把握していませんでした。このスクープは世界を駆け巡り、安部記者は1955年の第3回菊池寛賞を受賞しました。
1955年(昭和30年)4月1日英字新聞を創刊
読売新聞社の日刊英字新聞は、1955年(昭和30年)4月1日に創刊されました。創刊当時はタブロイド判8ページで、主に駐留米軍兵士とその家族が読者でした。題号は「Japan News」でスタートしましたが、その後、何度か変わり、「The Daily Yomiuri」を経て、2013年4月から「THE JAPAN NEWS」になります。他の全国紙が英字紙の発行から撤退する中、読売新聞の英字紙は、英語による日本情報発信の重要な媒体になっています。
1962年(昭和37年)4月1日読売日本交響楽団を設立
読売日本交響楽団は、読売新聞社、日本テレビ放送網、読売テレビの読売新聞グループ3社が出資して、1962年(昭和37年)4月1日に設立されました。初公演は9月26日でした。以来、ストコフスキー、チェリビダッケ、マズア、ロジェストヴェンスキーら数多くの世界的な名指揮者が登場し、クラシック音楽の素晴らしさを日本に広めてきました。
1964年(昭和39年)9月23日西部読売が発刊
1966年(昭和41年)6月30日ビートルズ日本初公演を主催
読売新聞社は戦後も、大型美術展をはじめ、国民に喜ばれる事業を手がけてきました。日本のロック史に残るビートルズ来日公演は、読売新聞社の主催でした。公演は、1966年(昭和41年)6月30日から7日2日にかけて、日本武道館で行われました。
スクープ記事
1967年(昭和42年)1月紅衛兵に引き回される中国要人の写真と中国文化大革命に関する特報(ボーン国際記者賞)
1966年(昭和41年)に始まった中国の文化大革命では、「紅衛兵」を名乗る大衆運動組織が、知識人、元地主らを弾圧しました。北京特派員の関憲三郎記者は紅衛兵の機関紙を入手し、大衆批判集会に引き出された中国要人の写真を複写。67年(昭和42年)1月26日の夕刊に掲載されたこのスクープは、世界でも大きな反響を呼びました。文化大革命の実態に迫った関記者は、ボーン国際記者賞(現在はボーン・上田記念国際記者賞)を受賞しました。
1970年(昭和45年)5月30日務台光雄が第9代社長に就任
第9代社長に就任した務台光雄(1896~1991年)は、常務取締役時代に読売新聞の大阪進出を主導するなど、読売新聞が全国紙に成長する道のりを固めた人物でした。各地に強固な販売網を築き、社内では「販売の神様」とも称されましたが、社長就任に際し、「新聞は編集第一主義で紙面をよくすることだ」と強調しました。務台は、質の高い紙面が部数増に結びつくという信念の下、読売新聞を発行部数世界一の新聞に飛躍させていきます。
スクープ記事
1971年(昭和46年)6月30日22年前の弘前大教授夫人殺害事件で真犯人が名乗り(新聞協会賞、菊池寛賞)
仙台高裁は1977年(昭和52年)2月、49年(昭和24年)に弘前大教授夫人が殺害された事件の犯人とされていた元被告に対し、再審無罪を言い渡しました。真犯人による告白を特報し、元被告の再審無罪にいたる長い道のりの第一歩となったのが、1971年(昭和46年)6月30日のこのスクープ記事です。井上安正記者は、この再審事件を巡る一連の報道で、77年度新聞協会賞と菊池寛賞を受賞しました。
スクープ記事
1973年(昭和48年)8月23日金大中事件に韓国公的機関員が介在(新聞協会賞)
1973年(昭和48年)8月8日、韓国野党の有力政治家でその後、韓国大統領となる金大中(キム・デジュン)氏が東京のホテルから連れ去られる事件が発生しました。読売新聞は8月23日の1面トップに、ソウル支局発の「情報部機関員が関係」のスクープを掲載。9月5日朝刊では、「韓国大使館員の出頭要請」と決定打を放ち、74年度新聞協会賞を受賞しました。
1975年(昭和50年)3月25日中部読売を発刊
1977年(昭和52年)2月発行部数日本一を達成
1977年(昭和52年)2月、読売新聞は日本ABC協会の報告部数で720万1056部を記録し、前月トップの朝日新聞に4万部以上の差を付け、部数日本一になりました。これ以降、現在まで首位を保っています。読売新聞は、ギネスブックの79年版で、「世界最大の発行部数を持つ新聞」と認定されました。
スクープ写真
1985年(昭和60年)8月日航機墜落事故で、500人の顔写真を掲載
1985年(昭和60年)8月12日に発生した「日航ジャンボ機墜落事故」を巡り、読売新聞は8月24日の夕刊特別面で、外国人9人を除く乗客500人の顔写真を旅行目的別に掲載しました。一人ひとりの人命の重さ、失った人生の尊さを読者に感じさせる紙面となりました。
1986年(昭和61年)10月19日東京本社の新聞制作が完全コンピューター化
新聞制作では長く鉛の活字を使用していました。鉛の活字を組んだ紙面の原版から紙型を取り、その紙型から鉛版を鋳造して輪転機に装着する仕組みでした。東京本社は1984年(昭和59年)、コンピューターによる制作システムを稼働させ、段階的に対象紙面を拡大していきます。東京での鉛活字の利用は86年(昭和61年)10月18日が最後で、翌19日から紙面制作のコンピューター化に完全移行しました。読売の新聞制作の歴史が変わった日です。その後、IT技術の急速な発展を受け、新聞制作システムはさらに進化を遂げます。
スクープ記事
1988年(昭和63年)3月大阪府警の拾得金横領と主婦犯人扱い事件へのキャンペーン(新聞協会賞)
1988年(昭和63年)2月、堺市の主婦が、夫の経営するスーパーで客が拾った15万円を派出所に届けたところ、その後、所轄の警察署は届け出を否定したばかりか、主婦をネコババの犯人にしようとする事件が発生しました。その後、警察官が拾得金を着服していたことが判明。大阪本社社会部は、主婦犯人扱いを巡る追跡ドキュメントを連載し、このキャンペーンで88年度新聞協会賞を受賞しました。
平成
スクープ写真
1991年(平成3年)6月4日雲仙・普賢岳噴火で火砕流(新聞協会賞)
1991年(平成3年)6月3日夕、長崎県雲仙・普賢岳で大火砕流が発生し、43人が犠牲になりました。佐賀支局の真子生次(まなこ・いきつぐ)記者(当時)は、火砕流から必死に逃げる消防隊員の姿を撮影しました。一方、山中で取材していた大阪本社写真部の田井中次一(たいなか・つぎかず)記者は火砕流に巻き込まれて帰らぬ人となりましたが、自分の体でかばったカメラの中には迫り来る火砕流の様子が7コマ残されていました。真子記者の写真は翌4日の朝刊1面に、田井中記者の写真は6月6日の朝刊1面に掲載されました。火砕流の実態と恐ろしさを伝えた両記者の組み写真には、91年度新聞協会賞が贈られました。
スクープ写真
1992年(平成4年)6月PKO法案審議にたまりかね、議場の隅で屈伸体操をする議員(新聞協会賞、東京写真記者協会特別賞)
1992年(平成4年)6月、国会は国連平和維持活動(PKO)協力法案の審議を巡り、自民党と社会党が激しく対立していました。社会党などの牛歩戦術で停滞する国会審議にしびれを切らし、議場で屈伸運動する議員の姿をとらえたこの写真は、海外にも配信され、「優れた政治写真」として92年度新聞協会賞を受賞しました。
1994年(平成6年)5月発行部数が1000万部を突破
1994年(平成6年)5月、読売新聞は日本ABC協会の報告部数で1001万9985部を記録し、初めて1000万部の大台を突破します。ギネスブックは、旧ソ連崩壊後、「コムソモリスカヤ・プラウダ」を発行部数世界一としましたが、同紙の部数減により、95年版では読売新聞を再び1位に認定しました。読売新聞の過去最多の発行部数は、2001年1月の1031万91部です。
1994年(平成6年)11月3日読売憲法改正試案を発表(提言報道第1号)
読売新聞社は1992年(平成4年)から憲法問題の調査・研究に着手し、94年(平成6年)11月3日の読売新聞朝刊で、読売憲法改正試案を発表しました。これが、読売新聞の提言報道の第1弾です。その後、税制や安全保障政策、医療制度など、幅広い分野で提言報道を実施。各種の提言内容は、政府や与野党の政策にも数多く取り入れられ、「提言の読売」という評価を得ました。憲法改正試案は94年の発表後、2000年試案、04年試案と提言を重ね、それとともに憲法改正論議自体をタブー視するような国内の風潮も変わっていきました。
スクープ記事
1995年(平成7年)1月1日山梨県上九一色村(当時)でサリン残留物検出
山梨県上九一色村(当時)で、猛毒ガス・サリンを生成した際の残留物質が警察当局によって検出されたと、1995年(平成7年)元日の1面トップでスクープしました。この残留物質は、前年6月に長野県松本市で発生した松本サリン事件(サリンガスで7人が死亡。後に1人死亡し、犠牲者8人)の現場からも検出されていたため、上九一色村に施設を持っていた宗教団体・オウム真理教の関与が一気に浮上。その後のオウム事件報道の先駆けとなりました。
1995年(平成7年)6月16日ニュースサイトを開設(デジタルサービスのスタート)
1990年代のインターネット普及は、読売新聞の情報発信に大きな変化をもたらしました。95年(平成7年)6月16日、社説や英字新聞の主要ニュースなどを配信するウェブサイトを開設。国内の新聞社では初めてのホームページでした。翌96年(平成8年)1月に「ヨミウリ・オンライン」と名付け、ニュースの配信本数を一挙に増やしました。99年(平成11年)には、女性向けの「大手小町」のページを設け、その中の掲示板「発言小町」は特に高い人気を集めています。その後、医療・介護・健康の総合サイト「ヨミドクター」、明治の創刊号以来の記事が検索・閲覧できる日本初の本格的オンライン・データベース「ヨミダス歴史館」など、デジタルサービスのメニューは拡大しています。
スクープ記事
1998年(平成10年)6月6日妻以外の女性から卵子の提供を受け、国内初の体外受精(新聞協会賞)
1998年(平成10年)6月6日の朝刊1面で、長野県内の産婦人科病院が3組の不妊カップルに対し、妻の妹の卵子や、夫の弟の精子を使った体外受精を試み、いずれも成功していたことを報じました。日本産科婦人科学会が不妊治療としての体外受精を「夫婦間に限る」とガイドラインを設けていたこともあり、非配偶者間の受精が公になった前例はありませんでした。生殖医療技術に社会的合意が追いついていない実態を明らかにしたこの報道は、98年度新聞協会賞を受賞しました。
1999年(平成11年)2月1日中央公論新社が発足。読売新聞グループに
読売新聞社は1999年(平成11年)2月1日、中央公論新社を設立し、明治以来の歴史と伝統のある出版活動を受け継ぎました。「中央公論」「婦人公論」「中公新書」などで知られる中央公論社は、1886年(明治19年)に創設された老舗出版社でしたが、1990年代の出版不況で経営難に直面。読売新聞社は、中央公論社の出版物の文化的価値の高さを重視し、新会社の設立により、その出版活動を継続させました。
スクープ写真
1999年(平成11年)4月ユーゴ・コソボ紛争の写真報道(新聞協会賞、東京写真記者協会特別賞)
バルカン半島で起きたコソボ紛争を、北大西洋条約機構(NATO)軍の空爆から和平までの約3か月間、現地で多角的にとらえた写真報道です。1999年(平成11年)3月から7月にかけて掲載され、「コソボ紛争の悲惨さを臨場感あふれる写真で内外に伝えた」などとして99年度新聞協会賞を受賞しました。
2000年(平成12年)1月1日 新しい「読売信条」を制定
読売信条は、読売新聞の社論の基礎となる考えを示すものです。1946年(昭和21年)9月に制定されましたが、表現などに現代に合わない面が出てきたため、2000年(平成12年)1月に一新しました。新しい読売信条は、自由主義、人間主義、国際主義の追求をうたい、「勇気と責任ある言論」を読者に約束しました。毎年1月1日の紙面に全文掲載しています。
2001年(平成13年)5月10日 読売新聞記者行動規範を制定
2002年(平成14年)10月17日日本オリンピック委員会(JOC)オフィシャルパートナーに
読売新聞社は、国際スポーツを公式に支えるパートナーとしての活動も行ってきました。2002年(平成14年)10月17日、日本オリンピック委員会(JOC)とオフィシャルパートナー契約を初めて締結。それ以来、04年(平成16年)のアテネ五輪から14年のソチ五輪までの6大会で日本代表選手団を応援してきました。パラリンピックも過去三つの大会で選手を応援するパートナーを務めました。16年、20年の東京五輪パラリンピック招致活動にも協賛しました。いずれも日本の報道機関では唯一の取り組みです。
2004年(平成16年)7月9日全国読売防犯協力会を設立
読売新聞販売店は、新聞を読者に届ける「最終ランナー」の役割を担うとともに、2003年(平成15年)から地域の安全を守るボランティア活動を本格化させました。各地の読売新聞の専売店(読売センター=YC)は、その活動を全国規模で推進するため、04年(平成16年)7月9日、「全国読売防犯協力会」を設立。不審者を発見した際の110番通報や、高齢者の見守りや声掛け、防犯啓発リーフレットの作成などを活動の柱とし、読売新聞社もこれを応援しています。
2005年(平成17年)4月1日東京本社に読者センターを開設
読売新聞には、記事、販売、広告へのお問い合わせやご意見が日々多数寄せられます。東京本社は2005年(平成17年)4月1日、それまで案件別だった読者対応の窓口を一本化し、「読者センター」を開設しました(大阪本社は2004年4月にスタート)。読者サービスの向上につなげるための社内体制の強化は、他の全国紙に先駆けた取り組みでした。
スクープ写真
2006年(平成18年)4月JR福知山線事故犠牲者の携帯電話の画面(5枚組み)(東京写真記者協会賞)
2005年(平成17年)4月25日に兵庫県尼崎市で発生したJR福知山線脱線事故は、107人の命を奪った大惨事でした。事故発生から1年を迎える06年(平成18年)、大阪本社写真部の記者は事故を風化させまいと遺族を訪ね、現場に残された犠牲者の携帯電話を撮影しました。06年4月19日の夕刊に掲載した携帯電話の画面上のメッセージの数々は、人が生きた証しを伝えるとともに、残された人たちの心の内も語りました。
2006年(平成18年)8月13日、15日「昭和戦争」の責任について最終報告を公表
2008年(平成20年)3月31日「メガ文字」を導入。1ページ12段に
読売新聞は2008年(平成20年)3月31日の朝刊から、1文字あたりの面積を約23%拡大した「メガ文字」を導入しました。「1行12字」は維持し、その分、紙面の段数をそれまでの14段組みから12段組みに変更しました。文字拡大は00年(平成12年)12月の「S字」導入以来で、「もっと目にやさしいサイズに」という読者の声に応えたものでした。
スクープ記事
2009年(平成21年)12月22日核密約文書、佐藤元首相邸に(新聞協会賞)
沖縄返還を巡る1969年(昭和44年)11月の日米首脳会談の際、当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領が極秘に交わした密約文書を佐藤氏の遺族が保管していたと、2009年(平成21年)12月22日の夕刊1面で報じました。沖縄返還は「核抜き・本土並み」が条件でしたが、「合意議事録」と題した密約文書には、返還後に有事が発生すれば核の再持ち込みを認めることが記されていました。外務省はそれまで密約の存在自体を否定しており、長く秘匿されていた歴史の一端を解明する戦後史の第一級資料の発掘となりました。文書の内容を特報した吉田清久記者には、10年度新聞協会賞が贈られました。
2011年(平成23年)3月3日読売KODOMO新聞を創刊
読売新聞社は、若い世代に新聞の魅力を伝えることを重視しています。読売KODOMO新聞は2011年(平成23年)3月3日、小学生向けの新聞(毎週木曜日発行)として創刊しました。家族で読める、学校の授業でも役立つ新聞として定着し、紙の新聞の新たな可能性を切り開くものとなりました。11年10月、「世界新聞・ニュース発行者協会」(WAN―IFRA)の世界青少年読者賞(編集部門)の審査委員会栄誉賞を受賞しています。
スクープ記事
2011年(平成23年)7月21日東電OL殺害事件で、遺留物から別人DNA(新聞協会賞)
1997年(平成9年)に発生した東京電力女性社員の殺害事件を巡り、東京本社社会部の取材班は、無期懲役が確定していたネパール人男性の冤罪を示すDNA鑑定結果が出たとの情報をつかみ、2011年(平成23年)7月21日朝刊1面で報じました。この鑑定結果が決め手となり、12年(平成24年)11月に東京高裁で男性を再審無罪とする判決が出ました。取材班は、12年度新聞協会賞を受賞しました。
2011年(平成23年)10月12日読売KODOMO新聞が世界新聞・ニュース発行者協会(WAN-IFRA)の世界青少年読者賞(編集部門)の審査委員会栄誉賞を受賞
スクープ写真
2013年(平成25年)7月「見せましょう!日本の底力を」(東京写真記者協会賞)
2013年(平成25年)7月22日朝、さいたま市のJR京浜東北線・南浦和駅で、電車から降りようとした女性が車両とホームの隙間に落ちて、挟まれる事故が発生しました。同じ電車に乗り合わせた東京本社写真部の記者が目撃したのは、女性を助けるため、乗客と駅員が車両を懸命に押し、ホームとの隙間を広げている光景でした。大勢の人が心と力を合わせる感動的なシーンを撮影。女性は無事救出されました。その日の夕刊社会面に掲載されたこの写真は、世界にも配信されました。
2014年(平成26年)1月6日東京・大手町に新社屋「読売新聞ビル」が開業
読売新聞社の社屋が銀座から大手町に移転したのは、1972年(昭和47年)でした(社屋完成は1971年10月)。その約40年後、大手町の同じ場所で社屋の建て替えを行い、2014年(平成26年)1月6日、開業を迎えました。新社屋は地上33階、地下3階建てで、高さ200メートル。最高水準の耐震・防災性能を備え、劇場型ホールも併設しています。日本の報道と文化の新たな発信拠点の役割を担う施設です。
2014年(平成26年)6月10日東京本社に初の女性役員が誕生
2014年(平成26年)11月7日読売中高生新聞を創刊
読売新聞社は、読売KODOMO新聞をステップに、今度は10代向けの「読売中高生新聞」(毎週金曜日発行)を2014年(平成26年)11月7日に創刊しました。若い世代に知ってほしいニュースをわかりやすく解説するとともに、新聞の投稿面と連動させたスマートフォン用アプリを開発し、安全なネット環境の下、読者に交流・議論の場を提供しています。読売中高生新聞も世界に評価され、15年(平成27年)9月、「世界新聞・ニュース発行者協会」(WAN―IFRA)の世界青少年読者賞(編集部門)の最高賞を受賞しました。
スクープ記事
2014年(平成26年)11月14日群馬大病院で腹腔鏡手術後に8人死亡(新聞協会賞)
保険適用外の腹腔鏡(ふくくうきょう)を使う高難度の肝臓切除手術を巡り、群馬大病院で手術を受けた患者のうち8人が2011年から3年半の間に死亡していた事実を、14年11月14日朝刊1面でスクープしました。取材班は群馬大病院の事例を通して、保険適用外手術が倫理審査や患者への十分な説明もなく繰り返されたことを明らかにし、先端医療の導入を巡る不透明な実態について何度も問題提起しました。読売の一連の報道が与えた衝撃は大きく、関係機関や医療現場が改善に動き出すきっかけとなりました。取材班は15年度新聞協会賞を受賞しました。
2015年(平成27年)4月9日読売新聞の創刊からの号数が5万号に
日本が近代国家として歩み始めた直後の1874年(明治7年)11月2日に第1号が出た読売新聞の題号は、現存する新聞で最も長い歴史を誇ります。以来、日露戦争のさなかの1905年(同38年)に1万号、上海事変や5・15事件が起きた32年(昭和7年)に2万号、新日米安保条約を巡って世情が騒然とした60年(同35年)に3万号、昭和終期の87年(同62年)に4万号――と、激動の近現代史を紙面に刻み続けてきました。その足跡は、日本の新聞史そのものと言えます。
2015年(平成27年)9月3日読売中高生新聞が世界新聞・ニュース発行者協会(WAN-IFRA)の世界青少年読者賞(編集部門)の最高賞を受賞
世界青少年読者賞は、25歳以下の新聞読者の拡大につながる取り組みに授与されます。読売中高生新聞は、興味や関心の対象が多岐にわたる中高生に向けたそれまでに例のない新聞として、新たに若い世代の新聞読者を獲得したことが認められました。投稿ページと連動した専用アプリを開発し、中高生向けに安全なネット環境を作り、アンケートなどを展開していることも評価されました。
2016年(平成28年)1月東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会とオフィシャル新聞パートナー契約を締結
2017年(平成29年)1月「日本パラスポーツ賞」第1回表彰式
「日本パラスポーツ賞」は、国内外のパラスポーツ競技会で優れた成績を収めた選手・チームを表彰するため、2016年に制定されました。 公益財団法人日本パラスポーツ協会の登録団体および日本パラリンピック委員会の加盟団体から推薦された選手・チームが対象です。
2019年(平成31年)1月1日本紙朝夕刊の本体価格を25年ぶりに引き上げ。月ぎめセット版4400円(税込み)に
2019年(平成31年)2月1日新デジタルサービス「読売新聞オンライン」スタート
2019年(平成31年)4月4日東京・銀座の「読売並木通りビル」開業。入居する「無印良品 銀座」「MUJI HOTEL GINZA」が営業開始
生活雑貨店・無印良品の世界旗艦店となる「無印良品 銀座」と、ホテル「MUJI HOTEL GINZA」が4月4日、東京・銀座3丁目に開業しました。ビルは読売新聞東京本社が建設し、所有しています。
令和
2020年(令和2年)6月22日新型コロナウイルス感染拡大を受け緊急提言を発表
2021年(令和3年)3月21日新型コロナウイルス感染拡大を受け緊急提言を発表(第2次)
2021年(令和3年)3月25日グループ本社がよみうりランドを株式公開買い付け(TOB)により完全子会社化。基幹7社体制に
2021年(令和3年)4月27日三井不動産が東京ドームをTOBにより完全子会社化。グループ本社は東京ドーム株式の20%の譲渡を受け、関連会社化
スクープ記事
2022年(令和4年)7月20日「五輪汚職事件」を巡る一連のスクープ(新聞協会賞)
東京五輪・パラリンピックの大会組織委員会元理事とスポンサーだった紳士服大手「AOKIホールディングス」側で不透明な資金のやり取りがあり、東京地検特捜部が捜査していることを同年7月20日朝刊で報じました。特捜部は同年8月17日、元理事を受託収賄容疑で逮捕。取材班は22年度新聞協会賞を受賞しました。
スクープ記事
2022年(令和4年)8月7日「海外臓器売買・あっせん」を巡る一連のスクープ(新聞協会賞)
NPO法人が仲介した中央アジア・キルギスでの生体腎移植で、臓器提供者(ドナー)のウクライナ人女性に1万5000ドル(約200万円=当時)近くが関係者を通じて支払われたことを22年8月7日朝刊で報じました。報道をきっかけに、警視庁が臓器移植法違反(無許可あっせん)容疑でNPOを摘発し、国内のドナー不足解消に向けた対策も進みました。取材班は23年度新聞協会賞を受賞しました。
2022年(令和4年)9月7日輪転機の運転にAI活用(新聞協会賞)
「Auto―Pilot Printing AI活用による輪転機自動運転とスキルレス化を目指して」が22年度新聞協会賞(新聞技術賞)を受賞。三菱重工機械システムと共同で開発したもので、人工知能(AI)が煩雑な操作が多い輪転機の運転を支援することで、熟練オペレーターでなくても高品質な紙面印刷ができるようにしました。
2023年(令和5年)3月日本サッカー協会(JFA)と「JFAナショナルチームパートナー契約(新聞)」を締結
2024年(令和6年)1月1日読売行動指針を策定
同年の本紙創刊150周年を機に、読売新聞グループで働く全ての人の羅針盤として策定しました。ネット社会の発展で真偽不明の情報が氾濫する中、真実を伝える報道はもとより、事業全般を通じて民主主義の発展に寄与するという読売新聞の存在意義を再確認するのが狙いです。
読売行動指針の全文はこちら。